11/03/2008 NHKプロフェッショナル (人工心臓開発 野尻知里)
磁石の力を使った新型人工心臓の開発リーダー、野尻知里さん、(56歳)の仕事の流儀。
野尻さんはアメリカ在住。スタッフ130人を抱えるリーダー。
人工心臓開発の初期から携わり、実用化まで漕ぎ着けた。
世界一の心臓病大国アメリカでの挑戦。人工心臓に命をかけたドラマ。
「夢を怖れず走り続けろ」
医療機器メーカー、米国法人 CEO、アメリカ、ミシガン州在住。
朝コーヒーを入れることからスタート。
一日、ミーティングやサインなどで目まぐるしく過ぎる。
去年、新型人工心臓がヨーロッパで認可され多忙な日々が続いている。
野尻たちが作ったのは、体内に埋めこみ、弱った心臓の機能を補う補助人工心臓。
人工心臓の開発は血栓との戦い。
装置内部にできた血栓が脳に至ると脳梗塞を引き起こす危険がある。
野尻たちの人工心臓は
内部の羽根車を磁石の力で回転させて宙に浮かせ手回転させる。
羽根車がどこにも接触しないため血栓が出来にくいといわれている。
日本の人工心臓が海外で認められたのははじめての快挙。
現在は量産化に向けて更なる技術改良の日々。
ヨーロッパ認定の次の、心臓病大国アメリカでの認可に向け準備を重ねている。
130人のスタッフ。医療機器の技術者。加工や組み立ての専門家。
マーケットや申請業務のスタッフ。
12カ国の専門スタッフを束ね、リーダーとして貫く流儀がある。
「チアリーダーになりきる」
月に1回の朝のミーティングには必ず食事をつける。
スタッフの前ではウルトラポジティブ。
この時期、認定化に向けて臨床試験に奔走していた。
病院側の協力を自分たちでとりつけないといけない。
動物の心臓を使っての技術指導も行われた。
招待したのはアメリカの名門病院。
臨床試験の参加が決まれば他の病院へのはずみがつく。
いい感じだという話がでています。握手が出た。
人工心臓のトップを走るアメリカで認可を受けることが野尻たちの悲願である。
かつて野尻は心臓外科医をしていたが、より多くの命を救いたく人工心臓開発に身を投じた。
8年前4人のスタッフでアメリカに渡り、少しずつ増えていき現在の130名。
信じる言葉は
「夢が人を動かす」
私が見ている夢が実現するから人はついてくる。
休日は家族と過ごす。同じ研究者の夫と13歳の娘。
40代の初めに結婚出産。研究の苦しいときを家族が支えてくれた。
名門病院の臨床試験はなかなか契約が出来ない。
担当者の報告は、移植キットの価格が高すぎる。競合他社と同程度まで下げてほしいというもの。
コストがかかっている説明には関心がないといわれた。
臨床試験の時に、機器を買い取るので、値引きを要求してくるのがアメリカ流。
「夢をかなえるのは、自分」
やることはやる。あきらめない。
大学病院との交渉前にスタッフの意見を聞いた。
価格を下げずじっくり交渉することを決めた。
あきらめず筋を通して向き合い続ける。
スタジオin
その後、この交渉はどうなりましたか?(茂木さん)
リストプライスを下げず交渉が成立した。
どういう患者がつけるのか?
エンドステージと呼ばれる末期の重症心不全の患者さん。
心臓の筋肉が弱って血液を回せない心臓状態を慢性心不全といい、
放置すると1年以内に50%死亡。
心臓移植が一般的だが、ドナーがいないから今のまま人工心臓をつけて移植へのブリッジ。
人工心臓をつけてるうちに回復する例もある。ブリッジ トゥ リカバリー、回復へのつなぎ。
この3つのやりかたがある。
人工心臓の治療成績。
多い州で70例。1年生存率。認可後84%。
国際移植学会の数字とほぼ同じ。移植の場合は5年10年と長い目で見る。
野尻さんたちも2年3年と長い目でみて移植と同等だったらいいと思っているところ。
新型人工心臓の実物。
心臓の下に筒状のものが取り付けられています。
バッテリー、コントローラーがある。
外出の時は、これらを持参する。
上のタンクに水を入れて回転させていますが、勢いがあります。
実際に毎分6リットルぐらいがわーっとでているという。
成人男性で十分な血液量をカバーする勢い。
画期的発明は羽車にあった。
軸がなく浮き上がっている。軸があると磨耗し、そこに血液がよどみ血栓ができる。
それが頭に飛んで脳梗塞になっていた。
だから、磁石で浮かせるという発案が画期的だった。
血液そのものが生き物ですね(茂木さん
確かに血液との戦いであった。
日本でも10月から臨床が始まった。
野尻はサラリーマン家庭に生まれ、ノーベル賞を夢見て京都大理学部に入学。
お茶くみの仕事しかないといわれ医学部に入りなおした。
興味をもったのは心臓。卒業後は心臓外科医としてはたらいた。
土日も返上し治療に没頭。
当時は重症の慢性心不全に有効な治療がなく、多くの患者を看取った。
外科医の限界を感じたときに、関心を持ったのが人工心臓。
39歳の時に、外科医をやめ、医療機器メーカーの研究所に入所。
人工心臓の研究に取り組み始める。
人工心臓はいかに血栓をできなくするかが勝負。
京都大教授と医療機器メーカーが考案した磁石を使った人工心臓に注目。
かれらとともに共同研究に乗り出した。
夢物語だと笑う人もいた。しかし日々懸命にうちこみ、9年後に試作機にたどりついた。
だが実用化には大きな壁があった
「訴訟が恐くてできない」
体に埋めこむ人工心臓。事故がおこれば裁判になりかねない。多くが協力を見送った。
野尻は3人でアメリカにわたった。
部品メーカーを回り20社以上製作を依頼してまわった。
まともに取り合ってもらえなかった。
人の命を救うためと何度も足を運んだ。
出身も文化も違う多国籍チーム。
そして4年後ヨーロッパで実用化のメドをつけ臨床試験に臨んだ。
試験が始まってまもなく、脳出血で死亡が続いたが、外部審査では機器そのものの問題ではなく
術後管理にあると報告。
医師らがそれまでの人工心臓と同じに、人工血栓を出来にくくする薬を大量に投与したため。
しかし死亡患者が出たことで周囲がざわついた。開発中止の声も出た。
それでも野尻は臨床試験は続行した。医師として術後管理をサポートした。
それから3年。ヨーロッパで認定された。
日本の人工心臓が海外で認められた瞬間だった。
再びスタジオ
臨床試験の最中に開発中止の声があったということでどんな思いでしたか(茂木さん
デバイス(装置)が悪いのではという周りからのプレッシャーが非常にショックでした。
メールでガンガン中止の声が送られてきたが、一切チームには言わず、自分のところで阻止した。
落ち込んでる閑はなかった。
逆境をささえていたものはなんですか?(茂木さん
デバイスを世に出したかった。医者を嫌いで辞めたのではなく助けられないものを助けたかった。
泣くだけ泣くと逆に元気になってきた。次にいける。
ビッグニュースが入ってきた。
ミシガン大学IRBが臨床試験の許可を出した。
この大学での臨床試験はプロジェクトにとって大きな意味を持つ。
今後40の病院で140人の試験をするという大規模なもの。
ミシガン大学心臓血管センター
医師たちの技術研修に臨んだ。
ブタの心臓を使った本番さながらの訓練。
左心室と人工心臓を繋ぐ導管の取り付けに最も気を使う。
野尻は自ら細かく注意点を伝えた。
あとは患者を待つだけ。
医師たちにとってもはじめてのデバイスだから気になるけどみんな慣れてるから・・。
何が起こるかわからない最先端医療の恐さを知り尽くしていた。
2週間後ミシガン大学からメール。
7/30に臨床試験を行うことになった。
患者が現れた。
39歳で転身し、今も大きな挑戦の渦中にいる。
「夢をあきらめない」
7/30 6:30AM 病院に向かう野尻。
執刀開始の1時間前に到着。
臨床試験を受けるのは62歳の男性。
重度の心不全で寝たきりだったが家族との時間を取り戻したくて臨床試験に参加した。
オペが始まり、人工心臓を取り付ける。医師の動きに目をこらす。
開始から1時間半。心臓への血液の流れをとめた。
人工心臓と導管を接続。
1200回転まであげる。
開始から2時間後、人工心臓を作動。
1300回転。1600回転。血液量を毎分4リットル。
問題がないかチェック。5時間後終了。
野尻は集中治療室に向かう患者さんにつきあった。
1週間後、経過は順調。歩いています。寝たきりだった人が・・・。
何かおいしいものを食べに行きたいと言っています。
野尻は会議。
アメリカでの認定は3年後。
立ち止まっている時間はない。
プロフェッショナルとは
パッションを探し、それを見つけたら粘り強く諦めずに行うこと。
**************
心臓手術といったら心臓肥大をカットして行うバチスタのドラマが続いています。
そういうドラマとは別の次元で
ホンモノのドラマです。
心不全患者を救いたい一心で人工心臓開発を研究し、作り上げた第一人者、野尻さん。
日本での人工心臓が海外で認められたという歴史を作りました。
軸をおかず、磁石の力で宙に浮かせることで
問題の多い血液を絡めることなく人工心臓を動かすことに成功。
これにより脳血栓を防ぐことに繋がったという。
健康で普通に生活していると心臓病ってどういう問題があるのかよくわからなかった。
でも生命の源であることは確か。
寝たきりの人が、自分で動いて外出できるようになったらそれはもう夢を手にいれたと同じですよね。
その感激を非常に感じました。
この装置の恩恵にあずかれてたくさんの人たちが
寝たきりから、自分で動ける生活を取り戻せますように。
UPが遅くなりましたが、この野尻さんの放映は10/30でした。
次はもう明日です。未公開トークだそうです。
人工心臓開発の初期から携わり、実用化まで漕ぎ着けた。
世界一の心臓病大国アメリカでの挑戦。人工心臓に命をかけたドラマ。
「夢を怖れず走り続けろ」
医療機器メーカー、米国法人 CEO、アメリカ、ミシガン州在住。
朝コーヒーを入れることからスタート。
一日、ミーティングやサインなどで目まぐるしく過ぎる。
去年、新型人工心臓がヨーロッパで認可され多忙な日々が続いている。
野尻たちが作ったのは、体内に埋めこみ、弱った心臓の機能を補う補助人工心臓。
人工心臓の開発は血栓との戦い。
装置内部にできた血栓が脳に至ると脳梗塞を引き起こす危険がある。
野尻たちの人工心臓は
内部の羽根車を磁石の力で回転させて宙に浮かせ手回転させる。
羽根車がどこにも接触しないため血栓が出来にくいといわれている。
日本の人工心臓が海外で認められたのははじめての快挙。
現在は量産化に向けて更なる技術改良の日々。
ヨーロッパ認定の次の、心臓病大国アメリカでの認可に向け準備を重ねている。
130人のスタッフ。医療機器の技術者。加工や組み立ての専門家。
マーケットや申請業務のスタッフ。
12カ国の専門スタッフを束ね、リーダーとして貫く流儀がある。
「チアリーダーになりきる」
月に1回の朝のミーティングには必ず食事をつける。
スタッフの前ではウルトラポジティブ。
この時期、認定化に向けて臨床試験に奔走していた。
病院側の協力を自分たちでとりつけないといけない。
動物の心臓を使っての技術指導も行われた。
招待したのはアメリカの名門病院。
臨床試験の参加が決まれば他の病院へのはずみがつく。
いい感じだという話がでています。握手が出た。
人工心臓のトップを走るアメリカで認可を受けることが野尻たちの悲願である。
かつて野尻は心臓外科医をしていたが、より多くの命を救いたく人工心臓開発に身を投じた。
8年前4人のスタッフでアメリカに渡り、少しずつ増えていき現在の130名。
信じる言葉は
「夢が人を動かす」
私が見ている夢が実現するから人はついてくる。
休日は家族と過ごす。同じ研究者の夫と13歳の娘。
40代の初めに結婚出産。研究の苦しいときを家族が支えてくれた。
名門病院の臨床試験はなかなか契約が出来ない。
担当者の報告は、移植キットの価格が高すぎる。競合他社と同程度まで下げてほしいというもの。
コストがかかっている説明には関心がないといわれた。
臨床試験の時に、機器を買い取るので、値引きを要求してくるのがアメリカ流。
「夢をかなえるのは、自分」
やることはやる。あきらめない。
大学病院との交渉前にスタッフの意見を聞いた。
価格を下げずじっくり交渉することを決めた。
あきらめず筋を通して向き合い続ける。
スタジオin
その後、この交渉はどうなりましたか?(茂木さん)
リストプライスを下げず交渉が成立した。
どういう患者がつけるのか?
エンドステージと呼ばれる末期の重症心不全の患者さん。
心臓の筋肉が弱って血液を回せない心臓状態を慢性心不全といい、
放置すると1年以内に50%死亡。
心臓移植が一般的だが、ドナーがいないから今のまま人工心臓をつけて移植へのブリッジ。
人工心臓をつけてるうちに回復する例もある。ブリッジ トゥ リカバリー、回復へのつなぎ。
この3つのやりかたがある。
人工心臓の治療成績。
多い州で70例。1年生存率。認可後84%。
国際移植学会の数字とほぼ同じ。移植の場合は5年10年と長い目で見る。
野尻さんたちも2年3年と長い目でみて移植と同等だったらいいと思っているところ。
新型人工心臓の実物。
心臓の下に筒状のものが取り付けられています。
バッテリー、コントローラーがある。
外出の時は、これらを持参する。
上のタンクに水を入れて回転させていますが、勢いがあります。
実際に毎分6リットルぐらいがわーっとでているという。
成人男性で十分な血液量をカバーする勢い。
画期的発明は羽車にあった。
軸がなく浮き上がっている。軸があると磨耗し、そこに血液がよどみ血栓ができる。
それが頭に飛んで脳梗塞になっていた。
だから、磁石で浮かせるという発案が画期的だった。
血液そのものが生き物ですね(茂木さん
確かに血液との戦いであった。
日本でも10月から臨床が始まった。
野尻はサラリーマン家庭に生まれ、ノーベル賞を夢見て京都大理学部に入学。
お茶くみの仕事しかないといわれ医学部に入りなおした。
興味をもったのは心臓。卒業後は心臓外科医としてはたらいた。
土日も返上し治療に没頭。
当時は重症の慢性心不全に有効な治療がなく、多くの患者を看取った。
外科医の限界を感じたときに、関心を持ったのが人工心臓。
39歳の時に、外科医をやめ、医療機器メーカーの研究所に入所。
人工心臓の研究に取り組み始める。
人工心臓はいかに血栓をできなくするかが勝負。
京都大教授と医療機器メーカーが考案した磁石を使った人工心臓に注目。
かれらとともに共同研究に乗り出した。
夢物語だと笑う人もいた。しかし日々懸命にうちこみ、9年後に試作機にたどりついた。
だが実用化には大きな壁があった
「訴訟が恐くてできない」
体に埋めこむ人工心臓。事故がおこれば裁判になりかねない。多くが協力を見送った。
野尻は3人でアメリカにわたった。
部品メーカーを回り20社以上製作を依頼してまわった。
まともに取り合ってもらえなかった。
人の命を救うためと何度も足を運んだ。
出身も文化も違う多国籍チーム。
そして4年後ヨーロッパで実用化のメドをつけ臨床試験に臨んだ。
試験が始まってまもなく、脳出血で死亡が続いたが、外部審査では機器そのものの問題ではなく
術後管理にあると報告。
医師らがそれまでの人工心臓と同じに、人工血栓を出来にくくする薬を大量に投与したため。
しかし死亡患者が出たことで周囲がざわついた。開発中止の声も出た。
それでも野尻は臨床試験は続行した。医師として術後管理をサポートした。
それから3年。ヨーロッパで認定された。
日本の人工心臓が海外で認められた瞬間だった。
再びスタジオ
臨床試験の最中に開発中止の声があったということでどんな思いでしたか(茂木さん
デバイス(装置)が悪いのではという周りからのプレッシャーが非常にショックでした。
メールでガンガン中止の声が送られてきたが、一切チームには言わず、自分のところで阻止した。
落ち込んでる閑はなかった。
逆境をささえていたものはなんですか?(茂木さん
デバイスを世に出したかった。医者を嫌いで辞めたのではなく助けられないものを助けたかった。
泣くだけ泣くと逆に元気になってきた。次にいける。
ビッグニュースが入ってきた。
ミシガン大学IRBが臨床試験の許可を出した。
この大学での臨床試験はプロジェクトにとって大きな意味を持つ。
今後40の病院で140人の試験をするという大規模なもの。
ミシガン大学心臓血管センター
医師たちの技術研修に臨んだ。
ブタの心臓を使った本番さながらの訓練。
左心室と人工心臓を繋ぐ導管の取り付けに最も気を使う。
野尻は自ら細かく注意点を伝えた。
あとは患者を待つだけ。
医師たちにとってもはじめてのデバイスだから気になるけどみんな慣れてるから・・。
何が起こるかわからない最先端医療の恐さを知り尽くしていた。
2週間後ミシガン大学からメール。
7/30に臨床試験を行うことになった。
患者が現れた。
39歳で転身し、今も大きな挑戦の渦中にいる。
「夢をあきらめない」
7/30 6:30AM 病院に向かう野尻。
執刀開始の1時間前に到着。
臨床試験を受けるのは62歳の男性。
重度の心不全で寝たきりだったが家族との時間を取り戻したくて臨床試験に参加した。
オペが始まり、人工心臓を取り付ける。医師の動きに目をこらす。
開始から1時間半。心臓への血液の流れをとめた。
人工心臓と導管を接続。
1200回転まであげる。
開始から2時間後、人工心臓を作動。
1300回転。1600回転。血液量を毎分4リットル。
問題がないかチェック。5時間後終了。
野尻は集中治療室に向かう患者さんにつきあった。
1週間後、経過は順調。歩いています。寝たきりだった人が・・・。
何かおいしいものを食べに行きたいと言っています。
野尻は会議。
アメリカでの認定は3年後。
立ち止まっている時間はない。
プロフェッショナルとは
パッションを探し、それを見つけたら粘り強く諦めずに行うこと。
**************
心臓手術といったら心臓肥大をカットして行うバチスタのドラマが続いています。
そういうドラマとは別の次元で
ホンモノのドラマです。
心不全患者を救いたい一心で人工心臓開発を研究し、作り上げた第一人者、野尻さん。
日本での人工心臓が海外で認められたという歴史を作りました。
軸をおかず、磁石の力で宙に浮かせることで
問題の多い血液を絡めることなく人工心臓を動かすことに成功。
これにより脳血栓を防ぐことに繋がったという。
健康で普通に生活していると心臓病ってどういう問題があるのかよくわからなかった。
でも生命の源であることは確か。
寝たきりの人が、自分で動いて外出できるようになったらそれはもう夢を手にいれたと同じですよね。
その感激を非常に感じました。
この装置の恩恵にあずかれてたくさんの人たちが
寝たきりから、自分で動ける生活を取り戻せますように。
UPが遅くなりましたが、この野尻さんの放映は10/30でした。
次はもう明日です。未公開トークだそうです。
10/16/2008 NHKプロフェッショナル (落語家 柳家小三治)
落語は伝統芸能であり文化なんですね。一つの芸術です。
今週は落語の師匠、柳家小三治さん、68歳の仕事の流儀。
笑わせるのではなく笑ってしまうのがホンモノの芸だと言っています。
タレント活動には目もくれず、年200日高座に上がり続ける孤高の落語家。
師匠は人間国宝、柳家小さん。
突き放され悩みぬいた日々があった。
「笑いの奥に人生がある」
千葉印西市。一年中全国を回っている小三治。
ヒゲが伸びていて誰かわからなかった。普段はヒゲも剃らないそうです。
その会場でどんな演目を話されていたかのネタ帳を見てからその日に話す演目を決めるそうです。
この日は、客に子供がいるということで何かそれにちなんだ候補が決まったようです。
「野ざらし」古典落語だそうです。子供を意識して本格モノを選んだと。
小三治の真髄は生き生きした人物描写にある。
声色や表情の微妙な変化で老若男女を演じ分ける。
奇をてらわず、無駄をそぎ落とした芸風。
小三治が考える落語の極意とは
「笑わせるのではない、笑ってしまうのが芸」
心の底からこみ上げて笑ってしまうもの。
持病のリューマチがありますが薬がすごい。ご飯がおかずというくらいの薬の量。
痛みがすごいときは紙を丸めることもできないとか。
薬で免疫を抑えてるから風邪をこじらせても命にかかわる。
重い病、体の衰え。それでも飄々と高座にあがる。
「人生全てが落語に出る」
お客さんはその人柄を聞きにきてくれている。
全部を取っ払った素の部分を。
小三治さんは自分を地味で生真面目で面白くない人物だと話しています。
愛知のホール。
誰もいない会場で発声練習。音響は申し分ない。ただ体調が気にかかる。声が出ない。
「背伸びをしない」
声が出ないときは声を出そうとしない。出ない自分でその日をやっていく。
無理しないと言っています。
この日は「転宅」泥棒と奥さんのはなし。泥棒に相談するふりして逆に騙すという話。
「スタジオin」
演目をその日に決めていることに驚きました(茂木さん
その日の体調、気温、世の中の流れそしてどの噺がいいかと考える。
150~160覚えたのに今できるのは50もない。30ぐらいしかない。
覚えたあの120はどうしたらいい?と茂木さんに聞いてます。
脳科学では忘れない特効薬はない。
繰り返し練習し、出力するしかないという。
間合いとかリズムは残るからそれが芸風になるという茂木さん。
落語の技の実演
たたみのセットに座る茂木さんと住吉さん。
小三治さんはいつも黒の紋付。本人の姿を消して落語の登場人物が生きてくるように。
持つものは扇子とてぬぐい。折り方で名前じゃなく柳の柄がでるようにしたいという。
江戸前。
煙管とタバコを演じる。見えないけど実際に行う。これが江戸前。
扇子で蕎麦を食べるまね。お見事!
茂木さんもよだれが出そうだといってます。
茂木さんはさまざまな登場人物になってほしいとリクエストしますが、
「無理」だと返事。
落語は喋るんじゃなくてその人の気持ちになって入っていくもの。
鏡を見て練習されるのですか?(住吉さん
鏡を見た事はないという小三治さん。
映画や芝居をみて例えば「若旦那」のイメージを探ったりすることはある。
飲みに行っても、顔の表情を変えたり、泣いてる風の人も、鼻をつまむくせも・・観察。
徳利を横にする人もいる。
すっかりウケました。思わず拍手してしまったくらいでした。
そうなってしまう人間の心持を学ぶという。
昭和14年新宿生まれ。父親は小学校の校長先生。しつけも勉強も厳しかった。
その反動で学校では人を笑わせることに熱中した。
落語に夢中になった・高校では落語研究会に入り、ラジオの落語番組で15週勝ち抜いた。
弟子入りしたのは後の人間国宝柳家小さん。
笑いがとれる話し方の研究。
4年後、高座にあがるようになり技巧にたけた小三治の落語は評判になる。
ある日、師匠の小さんがじきじきにけいこをつけてくれた。終わってから
「お前の噺はおもしろくねえな」とだけ言った。
必死に技術を磨いてきた自分の落語を師匠からは全否定された。
本当の面白さは何か?わからなくなった。
まもなく17人抜きで真打に抜擢。しかし師匠の言葉に苦しんだ。
映画も芝居も見てまわった。
寝ても冷めても面白いとは何かと考え続けた。
思いつめて落語をやめようとおもったこともある。
古今亭志ん生は
「落語を面白くするには、面白くしようとしないことだよ」と言ってくれた。
面白く話そうとせず素直に演じてみようと決めた。
40,50と素直に演じる難しさを感じてきた。
理想を求める旅はまだ続いている。
「再びスタジオ」
師匠に言われたことはかなりショックだったということで全部嫌になったのではないですか(住吉さん
好きで入った道だから。大学行かなくても人間として生きてみせると誓っていた。
今日の自分を明日越える、明日の自分を明後日乗り越えよう。
勲章がほしいとか思って入ったわけじゃない。
だから「面白いとは何か」という命題に行き詰まってしまった。
今でも自分はダメな人間だと思うことに何の斟酌もいらない。
一番下からものが見られないと落語はできないということも知った。
一番下にならないといけない。
病気になって自分以外のものに頼るようになって20年になり、それが大きかった。
病気になってよかった。人のありがたさ、痛みを知った。
人間はなぜ笑いを必要とすると思いますか(茂木さん
ただ、笑っちゃうんじゃないの?笑って嬉しいんじゃないかな。小噺にこんなのがあります。
「これだけ不精者が揃ったんだから、こんど不精会をやろうじゃないか。
よしなよ、面倒くさいから」・・・笑
8/1 一年で最も過酷な高座。
楽屋は6畳。出演者全員が使っている。
池袋の寄席。狭い客席で反応も手に取るようにわかる。非常に厳しい舞台。
もっと楽をしてもいいのに突っ張って生きていると本人は語ります。
客は常連、耳の肥えたお客を相手に力んでは逆に芸が乱れます。
会場の前には長蛇の列。人気あるんですねえ。
3日目。
暑い日にクーラーで体を冷やさないように重ね着していますが体調は悪化してます。
演目が決まらない。弱っている小三治さん。
候補を決められないまま高座に座った。
今日は噺も枕もしたくない・・と切り出していますが・・これは本音。みんな笑ってます。
20分後ようやく小噺が・・「あくび指南」
この日も観客を笑わせて味わい深く終わった。
中に休みの日を入れている。
過酷な夏の高座だがこれにこだわり続けているのはお客さんが励ましてくれてる気がするから。
マッサージ受けています。
8/8寄席5日目。この日も満員。
「猫の災難」笑いに包まれて終わりました。猫の舌なめずりが猫そのものみたいでした。
その夜は床屋。
客のためにやってるんじゃねえという自分と、この人たちにどう喜んでいただけたらいいのかと思う自分
が一致しない。どこかで一致するはずだけどまだ一致しないという。
翌日。会場は満席。
疲れはピーク。今日の高座をのりきれるか?
高座に座ってみたら、漢方薬の入った湯のみが置いてない。
のどの調子が悪いのにケアすることができない。ココロが揺らぎかけたときにつぶやいた。
「小さく、小さく」
受けようとせずに、軽くぽっというひとことが意外と心に入り込むもの。
「死神」死神を追い出す呪文を教わった男の話。大きな拍手。
控え室に戻り水を一気のみ。忘れてしまった前座の若い子が神妙に必死に謝ってます。
最終日は得意のネタ「宿屋の富」
真夏の高座を乗り切りました。
プロフェッショナルとは
周りが見てすごいと思っても本人はそんなことを思ってない。
そんなことよりも今のことで夢中だと思います。
*************
落語は面白いですよね。
私はお笑い系より好きです。
寄席に行ったこともないですけど。
長蛇の列にその人気度を確認してびっくりしました。
いいですねえ~。
色んなネタを覚えても今使えるのは30ぐらい。
でも、間合いなど味わいが生まれてくるというのに納得でした。
現在68歳の小三治さんですがまだまだ道を追究していくのでしょう。
表情のしわのひとつひとつに登場人物が刻まれているようでした。
次回は脳活用スペシャル
笑わせるのではなく笑ってしまうのがホンモノの芸だと言っています。
タレント活動には目もくれず、年200日高座に上がり続ける孤高の落語家。
師匠は人間国宝、柳家小さん。
突き放され悩みぬいた日々があった。
「笑いの奥に人生がある」
千葉印西市。一年中全国を回っている小三治。
ヒゲが伸びていて誰かわからなかった。普段はヒゲも剃らないそうです。
その会場でどんな演目を話されていたかのネタ帳を見てからその日に話す演目を決めるそうです。
この日は、客に子供がいるということで何かそれにちなんだ候補が決まったようです。
「野ざらし」古典落語だそうです。子供を意識して本格モノを選んだと。
小三治の真髄は生き生きした人物描写にある。
声色や表情の微妙な変化で老若男女を演じ分ける。
奇をてらわず、無駄をそぎ落とした芸風。
小三治が考える落語の極意とは
「笑わせるのではない、笑ってしまうのが芸」
心の底からこみ上げて笑ってしまうもの。
持病のリューマチがありますが薬がすごい。ご飯がおかずというくらいの薬の量。
痛みがすごいときは紙を丸めることもできないとか。
薬で免疫を抑えてるから風邪をこじらせても命にかかわる。
重い病、体の衰え。それでも飄々と高座にあがる。
「人生全てが落語に出る」
お客さんはその人柄を聞きにきてくれている。
全部を取っ払った素の部分を。
小三治さんは自分を地味で生真面目で面白くない人物だと話しています。
愛知のホール。
誰もいない会場で発声練習。音響は申し分ない。ただ体調が気にかかる。声が出ない。
「背伸びをしない」
声が出ないときは声を出そうとしない。出ない自分でその日をやっていく。
無理しないと言っています。
この日は「転宅」泥棒と奥さんのはなし。泥棒に相談するふりして逆に騙すという話。
「スタジオin」
演目をその日に決めていることに驚きました(茂木さん
その日の体調、気温、世の中の流れそしてどの噺がいいかと考える。
150~160覚えたのに今できるのは50もない。30ぐらいしかない。
覚えたあの120はどうしたらいい?と茂木さんに聞いてます。
脳科学では忘れない特効薬はない。
繰り返し練習し、出力するしかないという。
間合いとかリズムは残るからそれが芸風になるという茂木さん。
落語の技の実演
たたみのセットに座る茂木さんと住吉さん。
小三治さんはいつも黒の紋付。本人の姿を消して落語の登場人物が生きてくるように。
持つものは扇子とてぬぐい。折り方で名前じゃなく柳の柄がでるようにしたいという。
江戸前。
煙管とタバコを演じる。見えないけど実際に行う。これが江戸前。
扇子で蕎麦を食べるまね。お見事!
茂木さんもよだれが出そうだといってます。
茂木さんはさまざまな登場人物になってほしいとリクエストしますが、
「無理」だと返事。
落語は喋るんじゃなくてその人の気持ちになって入っていくもの。
鏡を見て練習されるのですか?(住吉さん
鏡を見た事はないという小三治さん。
映画や芝居をみて例えば「若旦那」のイメージを探ったりすることはある。
飲みに行っても、顔の表情を変えたり、泣いてる風の人も、鼻をつまむくせも・・観察。
徳利を横にする人もいる。
すっかりウケました。思わず拍手してしまったくらいでした。
そうなってしまう人間の心持を学ぶという。
昭和14年新宿生まれ。父親は小学校の校長先生。しつけも勉強も厳しかった。
その反動で学校では人を笑わせることに熱中した。
落語に夢中になった・高校では落語研究会に入り、ラジオの落語番組で15週勝ち抜いた。
弟子入りしたのは後の人間国宝柳家小さん。
笑いがとれる話し方の研究。
4年後、高座にあがるようになり技巧にたけた小三治の落語は評判になる。
ある日、師匠の小さんがじきじきにけいこをつけてくれた。終わってから
「お前の噺はおもしろくねえな」とだけ言った。
必死に技術を磨いてきた自分の落語を師匠からは全否定された。
本当の面白さは何か?わからなくなった。
まもなく17人抜きで真打に抜擢。しかし師匠の言葉に苦しんだ。
映画も芝居も見てまわった。
寝ても冷めても面白いとは何かと考え続けた。
思いつめて落語をやめようとおもったこともある。
古今亭志ん生は
「落語を面白くするには、面白くしようとしないことだよ」と言ってくれた。
面白く話そうとせず素直に演じてみようと決めた。
40,50と素直に演じる難しさを感じてきた。
理想を求める旅はまだ続いている。
「再びスタジオ」
師匠に言われたことはかなりショックだったということで全部嫌になったのではないですか(住吉さん
好きで入った道だから。大学行かなくても人間として生きてみせると誓っていた。
今日の自分を明日越える、明日の自分を明後日乗り越えよう。
勲章がほしいとか思って入ったわけじゃない。
だから「面白いとは何か」という命題に行き詰まってしまった。
今でも自分はダメな人間だと思うことに何の斟酌もいらない。
一番下からものが見られないと落語はできないということも知った。
一番下にならないといけない。
病気になって自分以外のものに頼るようになって20年になり、それが大きかった。
病気になってよかった。人のありがたさ、痛みを知った。
人間はなぜ笑いを必要とすると思いますか(茂木さん
ただ、笑っちゃうんじゃないの?笑って嬉しいんじゃないかな。小噺にこんなのがあります。
「これだけ不精者が揃ったんだから、こんど不精会をやろうじゃないか。
よしなよ、面倒くさいから」・・・笑
8/1 一年で最も過酷な高座。
楽屋は6畳。出演者全員が使っている。
池袋の寄席。狭い客席で反応も手に取るようにわかる。非常に厳しい舞台。
もっと楽をしてもいいのに突っ張って生きていると本人は語ります。
客は常連、耳の肥えたお客を相手に力んでは逆に芸が乱れます。
会場の前には長蛇の列。人気あるんですねえ。
3日目。
暑い日にクーラーで体を冷やさないように重ね着していますが体調は悪化してます。
演目が決まらない。弱っている小三治さん。
候補を決められないまま高座に座った。
今日は噺も枕もしたくない・・と切り出していますが・・これは本音。みんな笑ってます。
20分後ようやく小噺が・・「あくび指南」
この日も観客を笑わせて味わい深く終わった。
中に休みの日を入れている。
過酷な夏の高座だがこれにこだわり続けているのはお客さんが励ましてくれてる気がするから。
マッサージ受けています。
8/8寄席5日目。この日も満員。
「猫の災難」笑いに包まれて終わりました。猫の舌なめずりが猫そのものみたいでした。
その夜は床屋。
客のためにやってるんじゃねえという自分と、この人たちにどう喜んでいただけたらいいのかと思う自分
が一致しない。どこかで一致するはずだけどまだ一致しないという。
翌日。会場は満席。
疲れはピーク。今日の高座をのりきれるか?
高座に座ってみたら、漢方薬の入った湯のみが置いてない。
のどの調子が悪いのにケアすることができない。ココロが揺らぎかけたときにつぶやいた。
「小さく、小さく」
受けようとせずに、軽くぽっというひとことが意外と心に入り込むもの。
「死神」死神を追い出す呪文を教わった男の話。大きな拍手。
控え室に戻り水を一気のみ。忘れてしまった前座の若い子が神妙に必死に謝ってます。
最終日は得意のネタ「宿屋の富」
真夏の高座を乗り切りました。
プロフェッショナルとは
周りが見てすごいと思っても本人はそんなことを思ってない。
そんなことよりも今のことで夢中だと思います。
*************
落語は面白いですよね。
私はお笑い系より好きです。
寄席に行ったこともないですけど。
長蛇の列にその人気度を確認してびっくりしました。
いいですねえ~。
色んなネタを覚えても今使えるのは30ぐらい。
でも、間合いなど味わいが生まれてくるというのに納得でした。
現在68歳の小三治さんですがまだまだ道を追究していくのでしょう。
表情のしわのひとつひとつに登場人物が刻まれているようでした。
次回は脳活用スペシャル
10/08/2008 NHKプロフェッショナル(動物園飼育員 細田孝久)
「アイアイ」を歌う女の子。実はこのアイアイは絶滅の危機に瀕しており、世界中で繁殖を必死に
取り組んでいる動物である。上野動物園の細田はアイアイを3頭繁殖させ世界中に名を轟かせた。
並外れた飼育の技術で海外からも注目を集めている。
動物の心を開かせる技術はまさに細田マジック。
細田孝久さん48歳。
細田の真骨頂は動物の異変を察知する確かな目である。
「すべて動物から教わった」
朝8時に出勤。まず動物達のもとに直行。
着替えをすまして朝食。家では娘二人の父親であるが動物との時間の方が長い。
4人の飼育員を束ねる班長。
日々の世話に加え動物の健康管理と繁殖まで責任を持つ。
「とことん見る」
動物達の小さな変化にも目を配る。
それがストレスや病気を知る手がかりになる。
細田は同じ動物には同じ時間に接するようにしている。そうすることで僅かな変化に気づき、
病気や怪我に対応することができる。
この日、一匹のサルに釘付けになった。何かがついている。
ハイイロジェントルキツネザル。絶滅の危機に瀕しているサルである。
オスなのに妊娠の兆候がある?
「念のために」を惜しまない
木屑をしき始めた。もしも子供がいたら木から落ちてもいけない。
早く生んじゃうとかストレスで流産することもある。
つかまえるとサルにストレスがかかる。
遠くから見守る作戦。
妊娠か病気か?文献をあさる細田。
12日が過ぎても出産のきざしはなかった。
病気の可能性が高いと判断。捕獲し獣医師に診せた。
どちらかというとミルクのようなにおい。医師も首を傾げる症例だった。
7月。大事な仕事があった。
アイアイのソアが発情期を迎えた。
飼育員にとって繁殖は腕を問われる責任の重い仕事。
アイアイはメスの方が強くオスの接近を許さない。
通常は別々に飼育されているが、オスのマミとの接近をいつにするかが繁殖のカギを握る。
体の変化、泣き声、データなどを照らしてタイミングを計る。
翌日泣き声の変化に気づいた。
オスに引き合わせた。
「動物達を未来へ」
1ヵ月後、アイアイの妊娠が確認された。
「スタジオin」
動物達とコミュニケーションをとってるように見えた。(茂木さん
長いこと飼育員をしていると動物に似てくるという。
細田さんは「アイアイ」に似ているといわれるそうです。
実演してましたけど、指が長くて本当におサルさんみたいです(笑
七つ道具はベルトにつけている道具。
デジカメもありました。毎日撮って変化を見逃さないということです。
剪定バサミは枝や竹を切るために。ボロボロなのはアイアイがかじったから。
コンクリもかじる強い歯だそうです。
返してくれと言っても返さなかったけど放っておいたら下に落としてきたとか。
孫を見守るおじいさんみたいな表情でした。本当に可愛いくて大事にしているのがわかります。
動物たちと心を通わすテクニックはありますか(茂木さん
野生動物とペットは違う。
野生動物はこちらから手をださずずっと様子をみているだけ。
そうすると何ヶ月もかかる場合もあるけれど向こうから寄って来る。
何もしないとわかると動物たちも興味をしめす。細田さんは木になったつもりで見ているそうです。
根気よくやっているとそばによってきてにおいをかいだり引っ掻いてきたりするとか。
人間だからその日の感情があるけれど動物にはわかってるそうです。
細田の原点はある動物との壮絶な体験にさかのぼる。
細田はとにかく生き物が大好きな子だった。昆虫を片っ端から飼育した。
大学卒業後会社勤めより、動物とのふれあいがしたいと1年で退社。
ツテをたどり都内の動物園に入りたいと頼んだが空きがなくてただでもいいと頼み込んだ。
バイトで貯めた貯金を崩しながら動物園に通った。半年後飼育員に採用。
しかし現場は厳しかった。職人かたぎの先輩は指導などしてくれない。
フクロギツネを世話して首根っこをつかんだらおもいきり噛まれた。
動物に噛まれるのは飼育員として恥だと笑われたという。
右往左往しながらもいつか動物を担当すると頑張りつづけた。
そして5年目の春、インドサイのつがいを担当。ともに高齢の40歳。
メスのラニーは気難しかった。
しかし細田は意気込み、楽しくて仕方がなかった。
1年後すぎたころ、ラニーが痩せてきた。衰弱。食欲がなく下痢をしている。
暑さのせいと思い、草を細かくして与えた。
しかしラニーの症状は重くなるばかり。1ヵ月後に起き上がれなくなった。
サイは寝たきりとなると内臓が圧迫されて死に至る。
細田は自らの過ちに青ざめた。
「ラニーを前にラニーを見てなかった」
詳しく調べてみると体調不良ではなく老衰で体が弱っていた。
慌てて栄養価の高い餌を与えたが受け付けない。もうだめかもと噂が広がり細田も諦めかけた。
しかしラニーは必死に立ち上がろうとしていた。何とか救いたい。
ともに過ごした1年を振り返った。寝床への誘導に使った黒砂糖を美味そうに食べていたラニー。
細田は黒砂糖いりの特性おにぎりを差し出した。美味そうにのみこんだ。数時間おきにたべさせた。
4日後、ラニーは立ち上がった。周囲は奇跡だと驚いた。
細田は嬉しさと同時に深く自分をいましめた。
動物をみるとはどういうことか。とことん見なければ飼育はできない。ラニーが教えてくれた。
「再びスタジオ」
ラニーはその後どうなりましたか?(茂木さん
翌年4月にお客さんの前に出せるように回復した。
外にだして1年半後に死んでしまった。それは老衰でした。
ラニーが倒れた最大のミスは何でしたか?(住吉さん
8月に倒れたが6月から兆候があった。その症状を軽く考えて見過ごしていた。
真剣に向き合わないと動物は飼えないといわれたような気がした。
最後に亡くなったときは見取られたのですか?(茂木さん
朝、行ったら死んでいたという。
その場で解剖をするそうです。その翌日にいくと、いない。
がらんとしていなくて、心も空間もぽっかり穴があいてしまった。
動物たちから何を教えてもらいましたか?(茂木さん
一回来て一回死んじゃう。
結局死んじゃうからその間にどう生きるかを学んだ。
7月。連日猛暑が続いていた。上野動物園では新しい命が生まれようとしていた。
マタコミツオビアルマジロのマキちゃん。
体重の増加が見られ出産が近い。
繁殖は飼育員にとって最大の仕事。
しかし細田はアルマジロにこれまで苦い思いをしてきた。
8匹の出産に立会い、うまく育ったのは2匹。こればかりはわからない。
出産したと聞き、見にきたら動いてると嬉しそう。
無事に育つかどうかはここからが勝負。子育てに慣れてない母親が赤ちゃんを攻撃してしまう。
赤ちゃんも自力で母乳をのめなければ衰弱して死んでしまう。
24時間以内に一度は母乳を飲んでほしい。
明日の朝まで。勝負の24時間。いざというときのために人工保育の準備も始めた。
動物の赤ちゃんは出来るだけ母乳で育てたい。
7回目の観察。親の気をひき遠くへやってる間に赤ちゃんを測定。78・5g。85gがボーダーライン。
まだ母乳は飲んでないということ。あと15時間。
母乳をあきらめて人工保育をするのは簡単。だが野生の能力を欠いてしまう。
スラウェシメガネザルの繁殖に成功。
そのおサルさんの赤ちゃん。母親が育児をしないから代わりに細田たちが育ててきた。
ところが他のサルたちとコミュニケーションがとれず襲われて左目を傷つけられた。
アルマジロの赤ちゃんはギリギリまで母乳を飲めるように待つ。
獣医師から電話。
アルマジロと同じ日に出産したトビウサギは死産だった。
どれだけ手を尽くしても救えない命がある。その現実に向き合ってきた。
動物はとにかく死んでしまう。そのたびに自分のミスだと、あそこでああしなかったからだと
全然ダメだなと自己嫌悪に陥ってしまう。
飼育員になって24年。自問自答を繰り返してきた。
「無力だからこそ、あきらめない」
アルマジロの赤ちゃんはまだお乳をのんでいない。残り8時間。
赤ちゃんが母の腹の下にいる。可能性がでてきた。嬉しそうな顔です。
この夜、細田は泊り込んだ。
しかし朝まで待っても赤ちゃんはお乳を飲もうとしなかった。
朝、7:50。決断の時。みていると離れたという。ダメかもしれない。
衰弱の限界を見極める。15分後、赤ちゃんが母親のお腹にもぐり始めた。耳を澄ます。
かすかに聞こえる。飲んでるかもしれない。体重を見て判断しようと思った。
午後3時。82g。増えていました。そして翌日、赤ちゃんは自分の足で立ち上がっていました。
喜びがこみあげてきてます。とりあえずこのペースで行きたい。
この先、何があるかわからないから「とりあえず・・」
まだまだ手探りの状態が続きます。
プロフェッショナルとは?
とことん自分が納得できるまでやるということ。
できればそれを淡々とさらりと普通に続けていくこと。
********************
動物園にはあんまり行きたいと思いませんし、ペットも飼ってないので
動物が好きとは言いがたいのです。
でも、こんな風に動物が大好きで愛しくて大事に大事に思っているという方もいるんですね。
飼育員になりたいと会社をやめて無給で働くほどの情熱があった細田さん。
そこまでしてつかんだこの仕事は天職です。
飼育というその仕事ってお掃除やえさなどで明け暮れしそうですが
実は繁殖という重要な使命を持っていたのがひとつの発見でした。
いろんな動物達を語る細田さんの目がどの子もかわいくてならないという表情で
親の顔なんですね。
本当に愛してるということが伝わってきました。
見守るというのは簡単そうでその裏には決断する必要も有り、厳しいお仕事でした。
カメラを通してみると動物達が本当に可愛かったです。
次は落語家 柳家小三治さん
09/24/2008 NHKプロフェッショナル 味覚の秋スペシャル
鮨職人、小野二郎さん。フレンチシェフ、岸田周三さん。茶師、前田文男さん。
プロフェッショナル三人のレシピ公開です。
鮨職人、小野二郎さん。82歳。1/8放映されたそうです。
住吉さんが体験することになりました。
レシピは「ばらずし」。店ではだしてないので秘蔵のレシピだそうです。
特徴は三色のおぼろ(えび・黄身・白身)
殻を取ったえびをゆで、フードセッサーにかけてすり身にする。
ぱさぱさしていたら水を加えて回し、しっとり滑らかになればOK.
水みりんさとうを沸騰させたところにすり身のエビをいれてかき混ぜる。焦がさないようにする。
一回転まわして、縦にちょんちょんというふうにいためるとこげつかないという
「まわしてちょんちょん」だそうです^^
住吉さん、焦げそうで危険を察して小野さんが手伝っています。
火からおろしても焦げないように鍋をかき混ぜ続ける。
ゆで卵は黄身と白身にわけて、それぞれをフードプロセッサー。
同じように調味料をいれてかきまぜるが、黄身はすぐに粘りがでてむずかしい。
ぽろぽろになるまで炒る。
白身も同じく。調味液をいれ、炒る。
コツはない。ただ丁寧にいためる。
酢飯は酸味を強めにしたほうが相性がいい。
具はかんぴょうしいたけ、かまぼこなどを煮る。
ご飯の上に、具材をのせ、その上に三色のおぼろを乗っける。
ダンボールなどで仕切りを作っておぼろが混ざらないように綺麗に乗せる。
そしてゆでえびや絹さやをちらして出来上がり。
銘銘皿などにもりつけてもおいしそうです。
料理が苦手でも手順をおろそかにせずつみかさねていくことでおいいしいものができると
仰ってます。まさにその通りですね。
茶師、前田文男さん。47歳。 6/17に放映。当ブログでは⇒こちらの記事です。
火入れから出したばかりの茶葉を網の上にのせて冷ます様子を見せてくれました。
80度もあるのに手をいれてかきまぜています。住吉さんが手をいれたら熱くてびっくり@@
おいいしいお茶の入れ方を伝授してくれました。
住吉さんが持参した急須がかわいい~。
住吉さん、うちわであおってさました湯を入れてからそそいでます。
お茶碗にも均等ではなかったのでやや渋みが出た。
前田流、美味しいお茶のいれ方。
まず茶碗や湯冷ましにお湯を入れることで10度さますことができるという。
100度なら3回移し変えれば70度になる。適温は70度。
そしてお茶は少しずつ注ぎ分けていく。
ほんの少しずつ入れています。
大事なのは最後の一滴まで注ぎいれること。
思い切り振って最後の一滴も絞り出す。
おいしいのができました。
冷たいお茶。
ガラスのポットに茶葉15gを入れて、水1リットルを加え冷蔵庫に3時間。
下に葉が沈殿してますが、よく振り、竜巻状にして、コップに注ぐ。(茶漉し?)
甘みもでるくらい美味しいお茶だそうです。
お茶のエキスを味わう。
急須に茶葉をいつもの1・5倍入れる。
お湯は50度までさげる。お湯の量を極端に少なくする。
しずくのようにでるお茶を少量ずつ、急須を振りながら注ぎ分ける。
住吉さん、感激しています。美味しいそうです。
ほぉ~ちょっと新鮮でしたねえ・・。
自分でオイシイ飲み方を研究するのもいいですね。
茂木さんの脳科学。
よりおいしく食べる食べ方。プライミング効果。
美しい盛り付け。出来合いの惣菜も皿に移すなどする。
誰かと食べる。ミラーニューロンが相手の行動を受け止めるから自分も美味しく感じる。
フランス料理もキュイジーヌ・コンテンボレーヌスタイルに変わってきた。
こってりしたソースから素材を生かすシンプルな調理法へ。
岸田周三さん、34歳。白金のフレンチシェフ。2/5放映。
こだわりぬいた独特の加熱法。2月はマグロを調理した岸田さんだったようです。
家庭でできるレシピ公開。
「メカジキのポワレ」
付け合せの下ごしらえ。
ほおずきを小さく一口大に切る。
ナスはサイコロ状に切る。
メカジキはできれば生を用意。
数センチの厚みに切ったら、バターや油をフライパンに入れず、魚に直接塗る。
フライパンで焼くときも余分な脂肪はふき取る。
片面が焼けたら裏返す。両面を焦がす。
そのあとコンロの上においた皿にとりメカジキを休ませる。
余熱でじんわりと中まで火が通る。
メカジキを休ませている間員、こんにゃくエシャロット、ビネガーなどをバターなどでいためる。
そのとき、サンマの内臓の苦味を味のソースの隠し味に使う。
一緒にいため、塩を適宜ふる。プロセッサーを入れてなめらかに。
つけあわせのナスを揚げ、塩をふる。
香草(グラスレモン、青唐辛子、セミドライトマト、イタリアンパセリ・・などなど)を細かく刻んでおき、
オリーブオイルなどで調味。ほおずきをくわえ、ナスとまぜる。
そしてメカジキを再度焼く。
表面にバター、塩。
真ん中でカット。
開いてみると一見、生だけど、火は通ってるという。
その上につけあわせをのせ、
周りにソースを散らす。
ソースをかけないのは、自分の味で調節するため。
茂木さん、絶賛しています。
幸せな気持ちになったそうです。
今回のレシピは⇒こちら
9/30はアンコールで再放送の看護師田村さん。
10/7は動物園飼育員 細田孝久さん。
10/14落語家 柳家小三治さん。
鮨職人、小野二郎さん。82歳。1/8放映されたそうです。
住吉さんが体験することになりました。
レシピは「ばらずし」。店ではだしてないので秘蔵のレシピだそうです。
特徴は三色のおぼろ(えび・黄身・白身)
殻を取ったえびをゆで、フードセッサーにかけてすり身にする。
ぱさぱさしていたら水を加えて回し、しっとり滑らかになればOK.
水みりんさとうを沸騰させたところにすり身のエビをいれてかき混ぜる。焦がさないようにする。
一回転まわして、縦にちょんちょんというふうにいためるとこげつかないという
「まわしてちょんちょん」だそうです^^
住吉さん、焦げそうで危険を察して小野さんが手伝っています。
火からおろしても焦げないように鍋をかき混ぜ続ける。
ゆで卵は黄身と白身にわけて、それぞれをフードプロセッサー。
同じように調味料をいれてかきまぜるが、黄身はすぐに粘りがでてむずかしい。
ぽろぽろになるまで炒る。
白身も同じく。調味液をいれ、炒る。
コツはない。ただ丁寧にいためる。
酢飯は酸味を強めにしたほうが相性がいい。
具はかんぴょうしいたけ、かまぼこなどを煮る。
ご飯の上に、具材をのせ、その上に三色のおぼろを乗っける。
ダンボールなどで仕切りを作っておぼろが混ざらないように綺麗に乗せる。
そしてゆでえびや絹さやをちらして出来上がり。
銘銘皿などにもりつけてもおいしそうです。
料理が苦手でも手順をおろそかにせずつみかさねていくことでおいいしいものができると
仰ってます。まさにその通りですね。
茶師、前田文男さん。47歳。 6/17に放映。当ブログでは⇒こちらの記事です。
火入れから出したばかりの茶葉を網の上にのせて冷ます様子を見せてくれました。
80度もあるのに手をいれてかきまぜています。住吉さんが手をいれたら熱くてびっくり@@
おいいしいお茶の入れ方を伝授してくれました。
住吉さんが持参した急須がかわいい~。
住吉さん、うちわであおってさました湯を入れてからそそいでます。
お茶碗にも均等ではなかったのでやや渋みが出た。
前田流、美味しいお茶のいれ方。
まず茶碗や湯冷ましにお湯を入れることで10度さますことができるという。
100度なら3回移し変えれば70度になる。適温は70度。
そしてお茶は少しずつ注ぎ分けていく。
ほんの少しずつ入れています。
大事なのは最後の一滴まで注ぎいれること。
思い切り振って最後の一滴も絞り出す。
おいしいのができました。
冷たいお茶。
ガラスのポットに茶葉15gを入れて、水1リットルを加え冷蔵庫に3時間。
下に葉が沈殿してますが、よく振り、竜巻状にして、コップに注ぐ。(茶漉し?)
甘みもでるくらい美味しいお茶だそうです。
お茶のエキスを味わう。
急須に茶葉をいつもの1・5倍入れる。
お湯は50度までさげる。お湯の量を極端に少なくする。
しずくのようにでるお茶を少量ずつ、急須を振りながら注ぎ分ける。
住吉さん、感激しています。美味しいそうです。
ほぉ~ちょっと新鮮でしたねえ・・。
自分でオイシイ飲み方を研究するのもいいですね。
茂木さんの脳科学。
よりおいしく食べる食べ方。プライミング効果。
美しい盛り付け。出来合いの惣菜も皿に移すなどする。
誰かと食べる。ミラーニューロンが相手の行動を受け止めるから自分も美味しく感じる。
フランス料理もキュイジーヌ・コンテンボレーヌスタイルに変わってきた。
こってりしたソースから素材を生かすシンプルな調理法へ。
岸田周三さん、34歳。白金のフレンチシェフ。2/5放映。
こだわりぬいた独特の加熱法。2月はマグロを調理した岸田さんだったようです。
家庭でできるレシピ公開。
「メカジキのポワレ」
付け合せの下ごしらえ。
ほおずきを小さく一口大に切る。
ナスはサイコロ状に切る。
メカジキはできれば生を用意。
数センチの厚みに切ったら、バターや油をフライパンに入れず、魚に直接塗る。
フライパンで焼くときも余分な脂肪はふき取る。
片面が焼けたら裏返す。両面を焦がす。
そのあとコンロの上においた皿にとりメカジキを休ませる。
余熱でじんわりと中まで火が通る。
メカジキを休ませている間員、こんにゃくエシャロット、ビネガーなどをバターなどでいためる。
そのとき、サンマの内臓の苦味を味のソースの隠し味に使う。
一緒にいため、塩を適宜ふる。プロセッサーを入れてなめらかに。
つけあわせのナスを揚げ、塩をふる。
香草(グラスレモン、青唐辛子、セミドライトマト、イタリアンパセリ・・などなど)を細かく刻んでおき、
オリーブオイルなどで調味。ほおずきをくわえ、ナスとまぜる。
そしてメカジキを再度焼く。
表面にバター、塩。
真ん中でカット。
開いてみると一見、生だけど、火は通ってるという。
その上につけあわせをのせ、
周りにソースを散らす。
ソースをかけないのは、自分の味で調節するため。
茂木さん、絶賛しています。
幸せな気持ちになったそうです。
今回のレシピは⇒こちら
9/30はアンコールで再放送の看護師田村さん。
10/7は動物園飼育員 細田孝久さん。
10/14落語家 柳家小三治さん。
09/17/2008 NHKプロフェッショナル (大腸内視鏡医 工藤進英)
内視鏡の道を切り開いたパイオニアです。工藤進英医師、61歳の仕事の流儀。
「神の目をもつ男」
秋田の大館を訪ねた工藤医師。検査着に着替えるのが大変だと言っています。
専門は大腸がん。年間4万人が命を落とす。
内視鏡と呼ばれる細いスコープを操り病変を見つけ出して切除する。
日本の内視鏡治療のパイオニア。
ガンの進行度を見極め最善の治療法を選び出す。
命を救うだけが医者じゃない。患者の人生を守ってこそ医者。
工藤は日本の大腸内視鏡治療を切り開いた一人。
30年で13万件というのは世界でもトップクラス。
患者さんは先生にはいつまでも元気でいてほしいと言っています。
20代。不治の病を治したいと出来て間もない大腸内視鏡にとびこんだ。
「はみ出しモノ」と言われた。不安だったという。
そして初めて証明した未知のガンに医療界をあっと言わせた。
「はみだし者が道を開く」
昭和大学横浜市北部病院・消化器センター長部長
工藤はこの副病院長をつとめながらセンター長として現場に立つ。
この日は治療方針を決めるカンファレンス。
率いる医師は30人。外科と内科の垣根はなく合同で治療にあたる。
専門は大腸がん。命に関わる病気だが早期発見すればほぼ100%完治できる。
早くみつけできるかぎり患者の負担の少ない治療を行うことが工藤の方針だ。
お腹を開かずに済む腹腔鏡を主張。
「患者の痛みは自分の痛み」
患者さんを一番いい方法でみてあげるのが医者の鉄則。
工藤の凄さはガンを見つけ出す並外れた技術があること。
健診でガンを疑われた人や、他の病院で対処できない患者が集まる。
工藤の武器は大腸内視鏡。先端に装着された特殊なカメラ。直径1・5センチ。
手元のコントローラーで操作する。
長さ1・5メートルの入り組んだ腸の中を調べながら進むが。通常20分かかるものを
工藤は5分でやってのける。
その技を学ぼうと海外からも医師が研修に訪れている。
ポリープが見つかった患者さんですが、これが将来ガンになるかどうかは多くは組織を削り
あとで診断するが工藤の場合はこの場で染色し判断してしまう。
工藤が見分け方を編み出したがその方法が現在、世界に広がっているという。
生理食塩水を注入し、細いワイヤーで巻き取り高周波電流で焼ききった。
今や世界的その名を知られる工藤は、大学病院だけじゃなく全国各地の病院を回っている。
地方を回っての診療を20年続けている。
地道な検査の積み重ねこそ人の命を救う。
「続けることが救うこと」
大学病院に近いマンションで家族と暮らし、たまの休みは買いためた本を読む。
自分の信念を貫く人が好きだという。
現在61歳。現場に立つことにこだわり続けている。
7月。難しい患者が訪れた。
腫瘍の形が特殊なため内視鏡の切除は難しいといわれていた。
腫瘍にたどり着いた。生理食塩水を注入。患部を盛り上げたが面積が広く切除しにくい。
通常なら外科手術に切り替える症例だ。
だが工藤は内視鏡でできると踏んだ。医師として貫き続けた流儀。
「命を救うだけじゃない。その後の人生も救う」
患者の人生はガン治療後も続く。
できるだけ体の負担を減らすことがその後の生活を守ることにつながる。
もう一度生理食塩水注入。
高周波電流を流し、切除。見事に切り取った。
「先生じゃないとできないといわれてきた」と患者さんが言ってました。
「スタジオin」
一日多いとき25人ぐらいの検査をする。半日で25人だそうです。
痛そうというイメージがあるが?(住吉さん
基本的に大腸には知覚神経がないから痛みは感じないが
過度に腸管を伸ばしたりひねれば痛みがでますけどほぼ痛くない。
研修用に模型を持参してくれました。内視鏡を見せてくれました。
360度車のハンドルみたいに自在に操るのが手元のコントローラー。
先端のカメラには明かりがついています。空気を出したり入れたりするのも検査に必要。
S状結腸の辺りが難しいそうです。空気をいれてまっすぐにすることで患者も苦しまないとか。
カメラは100倍のズームがついている。病変を見分ける。
このズームによって診断が出来やすく、内視鏡か外科手術香の判断もできる。
検査の合間の短い時間に昼食。移動のタクシーで食べたり、いつも慌しい。
工藤は秋田出身。開業医似生まれ自分も人を助けたいと思った。
新潟大医学部を卒業。消化器外科を選んだ。
すぐにガン医療の厳しい現実の直面。30年以上前は精度が低く発見の遅れから多くの患者が
命を落としていった。無力感。
医師となって半年。研修先で聞いた話。これからは大腸がんが増えていく。
そのとき必要なのは正確な診断ができる内視鏡だと。
しかし大腸内視鏡検査は
「お産よりくるしい」と言われていた。
腸の壁を破る危険もあると。一日に一人がやっと。この技術が進めば多くの患者を救うことができる。
内科担当の工藤がやらせてくれと頼み、昼休みに内視鏡の検査に取り組んだ。
休みを返上し、他の病院にも出向いた。うまくなりたかった。
少しずつ早期がんを発見し、治療に結びつくケースもでてきた。
しかし受診者は増えない。ある日、上司から言われる。
「内視鏡にのめりこみすぎだ」
本当にこんなことをしていいのかと悩む日が続いた。
しかし学会でであった医者は
「やりたいことをやっている君は幸せだ」と言ってくれた。
自分がやっていることには意味があると思った。
患者の負担が減るように痛みの少ない独自の挿入法を考えた。
そしてガンをその場で診断するためにメーカーと共同で100倍まで拡大できる内視鏡を作った。
進行の早い陥凹型ガンを発見し世界をあっといわせた。
今、大腸内視鏡は広く世界に普及。
はみ出しと言われた医師はエキスパートとして最先端を走っている。
再びスタジオ
若いときに外科医でありながら内科医が行う内視鏡に取り組んだときは迷いがあったと思う。
どんな思いで内視鏡に取り組まれたのか?
当時、早期ガンはほとんど見つからなかった。
内科が診断し、外科が手術という体制。
内科も上手くないとガンが見つからない。早期診断、早期治療を自分で行おうと思った。
長い間、大腸がんや胃がんをオペしてきてその技術を捨てることになる。勇気が要った。
でも学会の後で高名な医師と飲んでてつい愚痴を言う工藤先生に
「やりたいことがあってもできずに当面の仕事に没頭しなければならない医者は大勢いる。
やりたいと思ってやっている工藤先生は幸せだと思う」といってくれた。
それで吹っ切れた。
医者の診断は患者の人生を変えるし命まで左右するが恐さはないか?(茂木さん
恐さよりも何か落とし穴がないかといつも考えてしまう。
工藤先生が判断することで大事にしていることは?(茂木さん
もしも患者が自分の家族だったらとどうするかを想定する。
自分の全知全能を介して治療にあたる。
「人生を背負う決断」
8月半ば。外来の日。
千葉からやってきた患者さん。村川さん。
大きな腫瘍で下に食い込んでいるという。2つの病院を回ると直腸全摘出し人工肛門になるという。
そうなると排泄のコントロールが必要になり、特別な処理が必要になる。一縷の望みをかけてきた。
最善の方法を考えると工藤先生は応えていました。
村川さんのガンは判断の難しいものだった。
精度の高い診断をくだせれば手立てがあるかもしれないと判断。
上手く行けば内視鏡でとれるかもしれない。
医師となって35年間。大腸がんと取り組み続けてきた。13万件の検査が今の工藤を支える。
医者の仕事は命を救うことだけじゃなくその後の人生を守ることも大切な役目。
村川さんの検査。
がんの広がりの見極めは表面に出ている腫瘍の形で識別。
形が崩れてなく、周りとの境界が曖昧でなければガンは周囲に広がっていないと判断できる。
そして、村川さんのガンは境界もはっきりしていて周りにも広がっていないと判断。
問題は深さ。思ったよりも深い。転移の可能性がある。ガンは内視鏡ではとりきれないと判断。
思ったよりも深くリンパ節転移の可能性もある。広範囲と見れば開腹しかない。
だが小さく穴をあけて腹腔鏡の切除もできる。転移の範囲をどこまで正確にみきわめられるか。
「命の重さ 人生の重さ」
新たな検査では転移の可能性は少なかった。人工肛門と言われた村川さんですが、腹腔鏡で
手術を出来ると判断。村川さんはありがたいと喜んでいました。
プロフェッショナルとは?
自分の経験と自分の知識をそれから技術を総動員して
結果について責任を負える人間。
**********************
内視鏡というもの、一度も経験ないですが、恐そうですね・・・ブルブルです・・。
痛くないとは言ってましたけど・・・
この大腸内視鏡という分野の発展で早期発見、治療ができるようになったのは
工藤医師の開拓精神によるもの。感謝している患者さんは大勢いらっしゃいます。
大腸の中を映しているので医師ならかぶりつきでご覧になったのではないでしょうか。
素人の私なんかはちょっと目をそらしたい映像の連続で困りました^^;
でももしも大腸がんと診断されたとき、頼りになる医師を知っているというのは心強いですね。
これからも患者さんが殺到しそうな気がして、先生には本当にいつまでもお元気で
現役でいてほしいと思いました。
ドラマなんかでも最善の治療をし、命を救ったらその後は・・野となれ・・という状態。
でもその後を考えることこそ大事だというストーリー展開でした。
現実の話、工藤先生はいつも、
「患者が家族だったら」と想定して最善の治療を心がけるということに感銘をうけました。
最後に登場した人工肛門になるかもしれないといわれた患者さん。
3度目の検査で腸を残せるかもしれないと聞き、本当に嬉しそうでした。
命が助かっても生活の質が落ちては生き残っても・・とつい思ってしまうものです。
工藤先生に診てもらえて本当に良かったですね。
次は食の秋スペシャルだそうです。
秋田の大館を訪ねた工藤医師。検査着に着替えるのが大変だと言っています。
専門は大腸がん。年間4万人が命を落とす。
内視鏡と呼ばれる細いスコープを操り病変を見つけ出して切除する。
日本の内視鏡治療のパイオニア。
ガンの進行度を見極め最善の治療法を選び出す。
命を救うだけが医者じゃない。患者の人生を守ってこそ医者。
工藤は日本の大腸内視鏡治療を切り開いた一人。
30年で13万件というのは世界でもトップクラス。
患者さんは先生にはいつまでも元気でいてほしいと言っています。
20代。不治の病を治したいと出来て間もない大腸内視鏡にとびこんだ。
「はみ出しモノ」と言われた。不安だったという。
そして初めて証明した未知のガンに医療界をあっと言わせた。
「はみだし者が道を開く」
昭和大学横浜市北部病院・消化器センター長部長
工藤はこの副病院長をつとめながらセンター長として現場に立つ。
この日は治療方針を決めるカンファレンス。
率いる医師は30人。外科と内科の垣根はなく合同で治療にあたる。
専門は大腸がん。命に関わる病気だが早期発見すればほぼ100%完治できる。
早くみつけできるかぎり患者の負担の少ない治療を行うことが工藤の方針だ。
お腹を開かずに済む腹腔鏡を主張。
「患者の痛みは自分の痛み」
患者さんを一番いい方法でみてあげるのが医者の鉄則。
工藤の凄さはガンを見つけ出す並外れた技術があること。
健診でガンを疑われた人や、他の病院で対処できない患者が集まる。
工藤の武器は大腸内視鏡。先端に装着された特殊なカメラ。直径1・5センチ。
手元のコントローラーで操作する。
長さ1・5メートルの入り組んだ腸の中を調べながら進むが。通常20分かかるものを
工藤は5分でやってのける。
その技を学ぼうと海外からも医師が研修に訪れている。
ポリープが見つかった患者さんですが、これが将来ガンになるかどうかは多くは組織を削り
あとで診断するが工藤の場合はこの場で染色し判断してしまう。
工藤が見分け方を編み出したがその方法が現在、世界に広がっているという。
生理食塩水を注入し、細いワイヤーで巻き取り高周波電流で焼ききった。
今や世界的その名を知られる工藤は、大学病院だけじゃなく全国各地の病院を回っている。
地方を回っての診療を20年続けている。
地道な検査の積み重ねこそ人の命を救う。
「続けることが救うこと」
大学病院に近いマンションで家族と暮らし、たまの休みは買いためた本を読む。
自分の信念を貫く人が好きだという。
現在61歳。現場に立つことにこだわり続けている。
7月。難しい患者が訪れた。
腫瘍の形が特殊なため内視鏡の切除は難しいといわれていた。
腫瘍にたどり着いた。生理食塩水を注入。患部を盛り上げたが面積が広く切除しにくい。
通常なら外科手術に切り替える症例だ。
だが工藤は内視鏡でできると踏んだ。医師として貫き続けた流儀。
「命を救うだけじゃない。その後の人生も救う」
患者の人生はガン治療後も続く。
できるだけ体の負担を減らすことがその後の生活を守ることにつながる。
もう一度生理食塩水注入。
高周波電流を流し、切除。見事に切り取った。
「先生じゃないとできないといわれてきた」と患者さんが言ってました。
「スタジオin」
一日多いとき25人ぐらいの検査をする。半日で25人だそうです。
痛そうというイメージがあるが?(住吉さん
基本的に大腸には知覚神経がないから痛みは感じないが
過度に腸管を伸ばしたりひねれば痛みがでますけどほぼ痛くない。
研修用に模型を持参してくれました。内視鏡を見せてくれました。
360度車のハンドルみたいに自在に操るのが手元のコントローラー。
先端のカメラには明かりがついています。空気を出したり入れたりするのも検査に必要。
S状結腸の辺りが難しいそうです。空気をいれてまっすぐにすることで患者も苦しまないとか。
カメラは100倍のズームがついている。病変を見分ける。
このズームによって診断が出来やすく、内視鏡か外科手術香の判断もできる。
検査の合間の短い時間に昼食。移動のタクシーで食べたり、いつも慌しい。
工藤は秋田出身。開業医似生まれ自分も人を助けたいと思った。
新潟大医学部を卒業。消化器外科を選んだ。
すぐにガン医療の厳しい現実の直面。30年以上前は精度が低く発見の遅れから多くの患者が
命を落としていった。無力感。
医師となって半年。研修先で聞いた話。これからは大腸がんが増えていく。
そのとき必要なのは正確な診断ができる内視鏡だと。
しかし大腸内視鏡検査は
「お産よりくるしい」と言われていた。
腸の壁を破る危険もあると。一日に一人がやっと。この技術が進めば多くの患者を救うことができる。
内科担当の工藤がやらせてくれと頼み、昼休みに内視鏡の検査に取り組んだ。
休みを返上し、他の病院にも出向いた。うまくなりたかった。
少しずつ早期がんを発見し、治療に結びつくケースもでてきた。
しかし受診者は増えない。ある日、上司から言われる。
「内視鏡にのめりこみすぎだ」
本当にこんなことをしていいのかと悩む日が続いた。
しかし学会でであった医者は
「やりたいことをやっている君は幸せだ」と言ってくれた。
自分がやっていることには意味があると思った。
患者の負担が減るように痛みの少ない独自の挿入法を考えた。
そしてガンをその場で診断するためにメーカーと共同で100倍まで拡大できる内視鏡を作った。
進行の早い陥凹型ガンを発見し世界をあっといわせた。
今、大腸内視鏡は広く世界に普及。
はみ出しと言われた医師はエキスパートとして最先端を走っている。
再びスタジオ
若いときに外科医でありながら内科医が行う内視鏡に取り組んだときは迷いがあったと思う。
どんな思いで内視鏡に取り組まれたのか?
当時、早期ガンはほとんど見つからなかった。
内科が診断し、外科が手術という体制。
内科も上手くないとガンが見つからない。早期診断、早期治療を自分で行おうと思った。
長い間、大腸がんや胃がんをオペしてきてその技術を捨てることになる。勇気が要った。
でも学会の後で高名な医師と飲んでてつい愚痴を言う工藤先生に
「やりたいことがあってもできずに当面の仕事に没頭しなければならない医者は大勢いる。
やりたいと思ってやっている工藤先生は幸せだと思う」といってくれた。
それで吹っ切れた。
医者の診断は患者の人生を変えるし命まで左右するが恐さはないか?(茂木さん
恐さよりも何か落とし穴がないかといつも考えてしまう。
工藤先生が判断することで大事にしていることは?(茂木さん
もしも患者が自分の家族だったらとどうするかを想定する。
自分の全知全能を介して治療にあたる。
「人生を背負う決断」
8月半ば。外来の日。
千葉からやってきた患者さん。村川さん。
大きな腫瘍で下に食い込んでいるという。2つの病院を回ると直腸全摘出し人工肛門になるという。
そうなると排泄のコントロールが必要になり、特別な処理が必要になる。一縷の望みをかけてきた。
最善の方法を考えると工藤先生は応えていました。
村川さんのガンは判断の難しいものだった。
精度の高い診断をくだせれば手立てがあるかもしれないと判断。
上手く行けば内視鏡でとれるかもしれない。
医師となって35年間。大腸がんと取り組み続けてきた。13万件の検査が今の工藤を支える。
医者の仕事は命を救うことだけじゃなくその後の人生を守ることも大切な役目。
村川さんの検査。
がんの広がりの見極めは表面に出ている腫瘍の形で識別。
形が崩れてなく、周りとの境界が曖昧でなければガンは周囲に広がっていないと判断できる。
そして、村川さんのガンは境界もはっきりしていて周りにも広がっていないと判断。
問題は深さ。思ったよりも深い。転移の可能性がある。ガンは内視鏡ではとりきれないと判断。
思ったよりも深くリンパ節転移の可能性もある。広範囲と見れば開腹しかない。
だが小さく穴をあけて腹腔鏡の切除もできる。転移の範囲をどこまで正確にみきわめられるか。
「命の重さ 人生の重さ」
新たな検査では転移の可能性は少なかった。人工肛門と言われた村川さんですが、腹腔鏡で
手術を出来ると判断。村川さんはありがたいと喜んでいました。
プロフェッショナルとは?
自分の経験と自分の知識をそれから技術を総動員して
結果について責任を負える人間。
**********************
内視鏡というもの、一度も経験ないですが、恐そうですね・・・ブルブルです・・。
痛くないとは言ってましたけど・・・
この大腸内視鏡という分野の発展で早期発見、治療ができるようになったのは
工藤医師の開拓精神によるもの。感謝している患者さんは大勢いらっしゃいます。
大腸の中を映しているので医師ならかぶりつきでご覧になったのではないでしょうか。
素人の私なんかはちょっと目をそらしたい映像の連続で困りました^^;
でももしも大腸がんと診断されたとき、頼りになる医師を知っているというのは心強いですね。
これからも患者さんが殺到しそうな気がして、先生には本当にいつまでもお元気で
現役でいてほしいと思いました。
ドラマなんかでも最善の治療をし、命を救ったらその後は・・野となれ・・という状態。
でもその後を考えることこそ大事だというストーリー展開でした。
現実の話、工藤先生はいつも、
「患者が家族だったら」と想定して最善の治療を心がけるということに感銘をうけました。
最後に登場した人工肛門になるかもしれないといわれた患者さん。
3度目の検査で腸を残せるかもしれないと聞き、本当に嬉しそうでした。
命が助かっても生活の質が落ちては生き残っても・・とつい思ってしまうものです。
工藤先生に診てもらえて本当に良かったですね。
次は食の秋スペシャルだそうです。
09/10/2008 NHKプロフェッショナル (菓子司 山口富蔵)
今週は京菓子のプロフェッショナル、山口富藏さん、71歳の仕事の流儀。
京都祇園祭。この時のお茶会の菓子を手がけたのが山口さん。
吉野葛を竹の葉でお守り風にくるみ涼しげな和菓子でした。
神社仏閣の御用と茶道の家元との信頼を得てのれんを引継ぎ3代目の山口さん。
「古都の雅、菓子のこころ」
象のネクタイをする山口さん。名前に「蔵」が入ってるからだそう。
厨房に向かい職人たちの作る菓子の状態をチェックしています。
山口は新たな菓子をデザインし職人を動かして菓子を生み出す最高責任者「菓子司」
伝統の京菓子。宮中の帰属文化で育まれた菓子。菓子で季節を表現するのがならわし。
梅雨明けに咲くむくげのあ花をモチーフにした黄色の和菓子。
吉野葛を使った涼しげな和菓子。
7月末、例年にない猛暑にお菓子を入れ替えることを提案。
デザイン画は青いもみじやかえでも入れて涼しげに。
緑の餡で夏の木の葉を表現し、黒のあんで木陰を表現。
山口は手作りを史上とする。あえて不ぞろいで構わない。一人ひとり表情の違う羅漢のように。
この日持参したお茶会のお菓子。中秋の名月に唐招提寺で行われるお茶会で主催者は
東山魁偉の涛声の襖絵を気に入っていたことを知り、これを反映させたデザインの和菓子。
葛のなかに写るゆり根、波間に映る月を表現した。
「人の心と心をつないでこそ」
新しい注文は女性の碁の会のお茶会の菓子。
会って話して好みをさぐるというのがまず一歩。
一つの案として奈良の正倉院にある聖武天皇愛用の碁石をモチーフにした小さな丸い菓子。
女性陣はもったいなくて食べられないと言ってます。一つはこれに決定。
もう一つが主菓子。
ある物語の中に女性が碁を打つ場面がでてくるという。上品でつつましやかで・・・。
その女性の雰囲気の和菓子を提案しています。
山口さんは5階の倉庫に向かい物語の原点を引っ張り出してきました。
十二単。着物の袖を菓子にしようと思いついた。
膨大に貯蔵された資料を探っています。
一見の客に誠実に応対しています。
「一期一会」
お菓子を食べるのはその一度だけ。どれだけ満足してもらえるかどうか。
碁を打つ女性の着物の袖口の和菓子が生まれました。
お客の女性たちが感激しています。
京菓子と普段私たちが口にしている和菓子との違いは?(茂木さん
長い京都の公家文化を踏まえたもの。
もう一つはもてなしの食べ物。客を迎えて初めて成り立つ世界。
その中に京都の季節を盛り込む。おいしいだけではない食べ方。
最近の流行は?(茂木さん
「かわいいい」という感覚でとらえられる御菓子。(笑
彩りでも華やかなブルーを使ったものが多い。
プロフェッショナルの道具。
風呂敷は結ぶ。人と人を結ぶということで大好きだそうです。
はし、刷毛、片栗粉(おしろいみたいに布で包んで)。
はしは自分で竹を削って作る。
お菓子を入れる容器、お重。綺麗な和菓子が次々と出ています。
名前をつけるのも楽しい。
「月出づる」 黒の四角いお菓子に銀色があります。そこが月の世界。
「野分」 風がふいて草がなびいた様子を表現した。
デザインする上でのコツは?
できるだけ単純にすること。
話を聞いてから食べると想像が膨らんで美味しさがまた違うという住吉さん。
重箱の一番下には一個だけ、茂木さんへの御菓子。
モーツアルトの40番がすきと聞いてその音楽のイメージに合わせて作ってきた。
緑の吹き上げた球状のものに宝石のような小さい透明な葛をいくつか載せてました。
凄くきれいでした。茂木さんももったいなくて手が出なかった・・
山口さんは老舗京菓子店の三代目として育ち、大学を出てから家で修行。
父は茶道の家元に絶大な信頼を得ていた。
働きぶりは猛烈で休む閑もなく働いていた。
もっと効率よくという思いが山口さんにはあった。
ある日父が倒れ、急遽33歳の山口さんが代わりに立つ。
茶道のお茶会に1000個の注文。大量注文に気持ちが震えた。
当日は早くから準備し、効率よくしたが、お菓子の皮が乾くということになってしまった。
泣く泣く納めた菓子だったが家元に
「一期一会」というやろ・・と言われてしまったという。
その後父が亡くなり店を継いだ山口さんにお客さんは
「お父さんとはえらい違う」と言ったという。
製法も材料も同じなのに何が違うのだろうと模索し続けたが7年経っても言われたという。
心に浮かんだ言葉
「一期一会」
なじみでも一見でもその注文は一度きり。一人ひとりのお客に正面から向き合おうと思った。
10年を過ぎたころ、気がつけば父と比較されなくなった。
客との出会いは一期一会。その姿勢が山口を菓子の匠に育て上げた。
「再びスタジオ」
お父さんと違うといわれたことについて。
色んな状況で言われたという。これだからダメということじゃなくて
ただ話をして会ってるときにお父さんと違って変わったな・・という風に。
あんまり言われるものだから、くそーっと思ってしまったという。
言われなくなったのは10年たってから。
父と同じようにしていても変わったと言われた。わけが分からなかった。
でもお客が他所に行かずにずっとお客できてくれた。
かわいがって育ててやろうと思ってくれたという。
10年間、お客様が辛抱してくれて待ってくれたと。
そして一期一会をおもいだしたということですが、どういう意味ですか?
食べたら消えるのが和菓子の仕事。
だけどそれだけに1つ1つに心していかないといけない。試行錯誤、後悔、失敗の繰り返し。
伝統を守りながら新しいお菓子を作るのは大変ではないですか。(茂木さん
お菓子を作ろうとおもったらあかん!
美術館でもっと色々見て遊ばないといけない。
遊び心は大事だという。
7月下旬。納涼茶会の注文。
伝統文化を考える会。有職研究会世話人、山口明彦さん、
源氏物語の夕顔の巻。今年、千年紀だそうです。
六条わたりのお忍び歩きの項。
涼やかで儚げだと言う。
夕顔の巻をお菓子で表現してほしいといわれた山口さんでした。
3日後、難題に取り組み始めた。
光源氏が垣根に咲く夕顔の花に目を留める。その家の女性は源氏と恋に落ちるがまもなく命を落とす。
文の中に「白き扇」がでてきて、このお香の扇をモチーフにしようと思った。
そのお香をどう表現するか?
源氏香という伝統的遊びに使われる香の図。
伝統文化に深い関心を持つ人ならすぐにピンと来るはず。
緑色の餡をうすいせんべいでくるんだ干菓子。溶かした砂糖がうっすら浮かぶ源氏香の模様。
会心の出来だと笑う山口さん。
きれいでしゃれたお菓子だと言っています。
物語に伝わる夕顔が咲いている桧垣の垣根の表現として、砂糖菓子に焼印を押した。
客と向き合いつくってこそ京菓子。
一期一会
8月に依頼者が見本を見に来た。
顔を洗っている山口さん。71歳の今でもお菓子を見せることは落ち着かないという。
葛の透明感を消し、たそがれに咲く夕顔のイメージの生菓子。
そして源氏香を見せたら絶賛する依頼者。さらに垣根の砂糖菓子。
しかし山口が色の取り合わせに迷いが出ています。
「白き扇のいたう焦がしたる」部分の表現ということです。
依頼者は夕顔の巻のイメージで楽しく想像でき、いただけると喜んでいました。
いよいよ当日。
お茶が一服出され、垣根と源氏香の組み合わせのお菓子が出されます。
山口さんが終わって出たところに一人の女性が声をかけてきました。
なんとこの方も扇に源氏香の模様がついているのを持ってました。
干菓子とちょうどぴったり。感激しています。
山口さんの思いが伝わりました。
プロフェッショナルとは
自分の仕事に嬉しさと楽しさとを感じて、プロを楽しむこと。
**************
京都の公家文化の流れでお茶会を楽しむための京菓子。
普通に私たちが食べている和菓子とは違う趣向のものだそうです。
上流階級に入りたかったら茶の道に入ると良いと言いますが
まさにその世界でしたね。
しかしさすが京都、皆さん風流人ですね。
禅問答のような問題を出してそれに答えを用意するちょっとした
知と遊びの世界を伝統的に表現するような面白さがありました。
難題にちゃんと応えられる幅広い教養と遊び心を持った方です。
和菓子大好きですが、たった一度きりの注文菓子って食べてみたいものですネ。
次は 大腸内視鏡医 工藤進英さん
吉野葛を竹の葉でお守り風にくるみ涼しげな和菓子でした。
神社仏閣の御用と茶道の家元との信頼を得てのれんを引継ぎ3代目の山口さん。
「古都の雅、菓子のこころ」
象のネクタイをする山口さん。名前に「蔵」が入ってるからだそう。
厨房に向かい職人たちの作る菓子の状態をチェックしています。
山口は新たな菓子をデザインし職人を動かして菓子を生み出す最高責任者「菓子司」
伝統の京菓子。宮中の帰属文化で育まれた菓子。菓子で季節を表現するのがならわし。
梅雨明けに咲くむくげのあ花をモチーフにした黄色の和菓子。
吉野葛を使った涼しげな和菓子。
7月末、例年にない猛暑にお菓子を入れ替えることを提案。
デザイン画は青いもみじやかえでも入れて涼しげに。
緑の餡で夏の木の葉を表現し、黒のあんで木陰を表現。
山口は手作りを史上とする。あえて不ぞろいで構わない。一人ひとり表情の違う羅漢のように。
この日持参したお茶会のお菓子。中秋の名月に唐招提寺で行われるお茶会で主催者は
東山魁偉の涛声の襖絵を気に入っていたことを知り、これを反映させたデザインの和菓子。
葛のなかに写るゆり根、波間に映る月を表現した。
「人の心と心をつないでこそ」
新しい注文は女性の碁の会のお茶会の菓子。
会って話して好みをさぐるというのがまず一歩。
一つの案として奈良の正倉院にある聖武天皇愛用の碁石をモチーフにした小さな丸い菓子。
女性陣はもったいなくて食べられないと言ってます。一つはこれに決定。
もう一つが主菓子。
ある物語の中に女性が碁を打つ場面がでてくるという。上品でつつましやかで・・・。
その女性の雰囲気の和菓子を提案しています。
山口さんは5階の倉庫に向かい物語の原点を引っ張り出してきました。
十二単。着物の袖を菓子にしようと思いついた。
膨大に貯蔵された資料を探っています。
一見の客に誠実に応対しています。
「一期一会」
お菓子を食べるのはその一度だけ。どれだけ満足してもらえるかどうか。
碁を打つ女性の着物の袖口の和菓子が生まれました。
お客の女性たちが感激しています。
京菓子と普段私たちが口にしている和菓子との違いは?(茂木さん
長い京都の公家文化を踏まえたもの。
もう一つはもてなしの食べ物。客を迎えて初めて成り立つ世界。
その中に京都の季節を盛り込む。おいしいだけではない食べ方。
最近の流行は?(茂木さん
「かわいいい」という感覚でとらえられる御菓子。(笑
彩りでも華やかなブルーを使ったものが多い。
プロフェッショナルの道具。
風呂敷は結ぶ。人と人を結ぶということで大好きだそうです。
はし、刷毛、片栗粉(おしろいみたいに布で包んで)。
はしは自分で竹を削って作る。
お菓子を入れる容器、お重。綺麗な和菓子が次々と出ています。
名前をつけるのも楽しい。
「月出づる」 黒の四角いお菓子に銀色があります。そこが月の世界。
「野分」 風がふいて草がなびいた様子を表現した。
デザインする上でのコツは?
できるだけ単純にすること。
話を聞いてから食べると想像が膨らんで美味しさがまた違うという住吉さん。
重箱の一番下には一個だけ、茂木さんへの御菓子。
モーツアルトの40番がすきと聞いてその音楽のイメージに合わせて作ってきた。
緑の吹き上げた球状のものに宝石のような小さい透明な葛をいくつか載せてました。
凄くきれいでした。茂木さんももったいなくて手が出なかった・・
山口さんは老舗京菓子店の三代目として育ち、大学を出てから家で修行。
父は茶道の家元に絶大な信頼を得ていた。
働きぶりは猛烈で休む閑もなく働いていた。
もっと効率よくという思いが山口さんにはあった。
ある日父が倒れ、急遽33歳の山口さんが代わりに立つ。
茶道のお茶会に1000個の注文。大量注文に気持ちが震えた。
当日は早くから準備し、効率よくしたが、お菓子の皮が乾くということになってしまった。
泣く泣く納めた菓子だったが家元に
「一期一会」というやろ・・と言われてしまったという。
その後父が亡くなり店を継いだ山口さんにお客さんは
「お父さんとはえらい違う」と言ったという。
製法も材料も同じなのに何が違うのだろうと模索し続けたが7年経っても言われたという。
心に浮かんだ言葉
「一期一会」
なじみでも一見でもその注文は一度きり。一人ひとりのお客に正面から向き合おうと思った。
10年を過ぎたころ、気がつけば父と比較されなくなった。
客との出会いは一期一会。その姿勢が山口を菓子の匠に育て上げた。
「再びスタジオ」
お父さんと違うといわれたことについて。
色んな状況で言われたという。これだからダメということじゃなくて
ただ話をして会ってるときにお父さんと違って変わったな・・という風に。
あんまり言われるものだから、くそーっと思ってしまったという。
言われなくなったのは10年たってから。
父と同じようにしていても変わったと言われた。わけが分からなかった。
でもお客が他所に行かずにずっとお客できてくれた。
かわいがって育ててやろうと思ってくれたという。
10年間、お客様が辛抱してくれて待ってくれたと。
そして一期一会をおもいだしたということですが、どういう意味ですか?
食べたら消えるのが和菓子の仕事。
だけどそれだけに1つ1つに心していかないといけない。試行錯誤、後悔、失敗の繰り返し。
伝統を守りながら新しいお菓子を作るのは大変ではないですか。(茂木さん
お菓子を作ろうとおもったらあかん!
美術館でもっと色々見て遊ばないといけない。
遊び心は大事だという。
7月下旬。納涼茶会の注文。
伝統文化を考える会。有職研究会世話人、山口明彦さん、
源氏物語の夕顔の巻。今年、千年紀だそうです。
六条わたりのお忍び歩きの項。
涼やかで儚げだと言う。
夕顔の巻をお菓子で表現してほしいといわれた山口さんでした。
3日後、難題に取り組み始めた。
光源氏が垣根に咲く夕顔の花に目を留める。その家の女性は源氏と恋に落ちるがまもなく命を落とす。
文の中に「白き扇」がでてきて、このお香の扇をモチーフにしようと思った。
そのお香をどう表現するか?
源氏香という伝統的遊びに使われる香の図。
伝統文化に深い関心を持つ人ならすぐにピンと来るはず。
緑色の餡をうすいせんべいでくるんだ干菓子。溶かした砂糖がうっすら浮かぶ源氏香の模様。
会心の出来だと笑う山口さん。
きれいでしゃれたお菓子だと言っています。
物語に伝わる夕顔が咲いている桧垣の垣根の表現として、砂糖菓子に焼印を押した。
客と向き合いつくってこそ京菓子。
一期一会
8月に依頼者が見本を見に来た。
顔を洗っている山口さん。71歳の今でもお菓子を見せることは落ち着かないという。
葛の透明感を消し、たそがれに咲く夕顔のイメージの生菓子。
そして源氏香を見せたら絶賛する依頼者。さらに垣根の砂糖菓子。
しかし山口が色の取り合わせに迷いが出ています。
「白き扇のいたう焦がしたる」部分の表現ということです。
依頼者は夕顔の巻のイメージで楽しく想像でき、いただけると喜んでいました。
いよいよ当日。
お茶が一服出され、垣根と源氏香の組み合わせのお菓子が出されます。
山口さんが終わって出たところに一人の女性が声をかけてきました。
なんとこの方も扇に源氏香の模様がついているのを持ってました。
干菓子とちょうどぴったり。感激しています。
山口さんの思いが伝わりました。
プロフェッショナルとは
自分の仕事に嬉しさと楽しさとを感じて、プロを楽しむこと。
**************
京都の公家文化の流れでお茶会を楽しむための京菓子。
普通に私たちが食べている和菓子とは違う趣向のものだそうです。
上流階級に入りたかったら茶の道に入ると良いと言いますが
まさにその世界でしたね。
しかしさすが京都、皆さん風流人ですね。
禅問答のような問題を出してそれに答えを用意するちょっとした
知と遊びの世界を伝統的に表現するような面白さがありました。
難題にちゃんと応えられる幅広い教養と遊び心を持った方です。
和菓子大好きですが、たった一度きりの注文菓子って食べてみたいものですネ。
次は 大腸内視鏡医 工藤進英さん
09/03/2008 NHKプロフェッショナル (競泳コーチ 平井伯昌)
攻め続けた夏、今週のプロフェッショナルは競泳コーチ 平井伯昌さん45歳。
北京オリンピック、平泳ぎ決勝の北島1位の瞬間が出ています。
そして中村礼子の背泳ぎは3位。
偉業の影にいた二人のコーチ、平井伯昌(のりまさ)さんの仕事の流儀。
高地での合宿、泳法改良。
北島は一回りも二回りも大きくしてくれたといい、中村は心の支えと言っています。
6月初め。
代表選手たちと調整を続けていた。
オリンピック前は代表選手たちのコーチだが普段は子供達にも教えている。
水泳というのは真面目な子だけが生き残れるという。
五輪代表選手は北島と中村ともう一人上田春佳(20)の三人が選ばれた。
平井が手塩にかけて育ててきた選手たち。
レースで勝つために一つのことにこだわる
「攻め」の泳ぎを貫く
スタート台のところで両脇をつかんでいた中村。平井は縦につかむように指導していた。
難度は高いがスピードが違うという。
北島はひと月前に肩の強い痛みがあった。治療を続け今は追いこみの時期。
北島にはライバル、ハンセンがいて相手はかなり強力である。
五輪前の公式試合でいい結果をだし弾みをつけたかったが再び痛みが出た。
ビデオを見てきづいたことがあった。
水面に体を出すとき立っている。このフォームを治せば痛みも消える可能性がある。
話題の水着を着用させ、公式試合に挑んだ。1秒の短縮。驚異的な勝利。
そして1か月の高地合宿。
練習後もコーチの仕事は続く。
北京への戦略。北島、200メートルはめどがついたが100メートルはまだ改良の余地がある。
中村は精神面の改良が必要。守りの姿勢が目立っていた。
「選手の一歩先を歩く」
アメリカの代表選手を聞き、弱気になってないかと心配するコーチ。
翌日中村を外に連れ出し1時間話をした。
ハンセンは200の代表落ち。北島の最大のライバルが。北島の出した記録がプレッシャーになった様子。
「精神は体で鍛える」
全力で100mを10本、50Mを16本。タイムが落ちないように気をつける。
平地で行っても過酷なトレーニング。
心拍を見ながらの調整。
「スタジオin」
録画は五輪前でしたが、この頃メダルへの手ごたえはどうでしたか?(茂木)
北島の200は確信があったが100は半々だと思ってた。(平井)
中村はあそこからが勝負でメダルは見えてなかった。
北島の肩の故障については今年3度目。ハラハラしていた。
北島はレース前には集中力が高まり野獣のようになってくる。
そこにフォームが崩れ痛みがあると精神面で良くない。トレーニングを積んだ自信が崩れてしまう。
仕事の道具はパソコン。ストップウオッチ、2個。5円玉をはさんでいます。自分の目印と外国のコーチに
見せるために。
PC画面2分割して同時にレースを映し、フォームの研究。
メンタル面の強化は特に五輪には大事。ハードトレーニングを乗り越えたとき精神面でも強くなる。
平井は5歳でスイミングスクールに通い、大学は早稲田の水泳部。
選手としては芽が出ず、3年でマネージャーになって新人の練習をみた。
練習メニューを考え気づいたことを指摘した。人を育てる面白さに目覚めた。
就職は大手保険会社に内定。しかし選手を育てたいと思い、スイミングスクールに就職。
ジュニアコースを任された。その合間に有名コーチに合い、指導法を学んだ。
そして北島発掘。当時中学生の北島はタイムが良かったわけではないがその目をみて五輪を目指そうと
思った。芯に強いものをもっていたという。北島に弱気にならず攻めて泳げといい続けた。
17歳でシドニー五輪に出た。200の予選で軽めに泳いでいいといった。結果は17位。予選落ち。
北島に謝った。
「すまない俺のせいだ」
リベンジを誓った。何が何でもメダルをとる。
翌年の世界選手権。100の決勝までハッパを掛け続けた。この時北島、後半失速し4位。
鈴木大地のコーチ@鈴木陽ニに声をかけられた。
欲が出すぎている。選手にプレッシャーになる。
選手と同じように熱くなってはレースを導くことはできない。
「選手の一歩先を歩く」
翌日の200.他の選手を必死に観察。レース展開をたて、後半勝負の戦略をたてる。
100から150はちょっと落とせ。175からスパートに入る。
自分のレースをしよう。結果は後からついてくる。そして予想通りの展開となり銅メダル獲得。
3年後のアテネ、2種目で金。コーチとなって15年めの栄冠。
「再びスタジオ」
北島発掘のとき、いい目をしてたというがどんな顔でしたか(茂木)
穏やかそうな顔がレース前になると鋭い目付きに変った。がりがりだったのに強そうに見えた。
逆の子はたくさんいるが・・。最近でもレース前の北島は近寄りがたい雰囲気をかもし出す。
小学1年の北島が平井コーチに「かぼちゃ」と言ったエピも披露。このころは普通の子だったはずなのに
なんか今の結びつきを暗示させるものがあったのかも。
シドニーの失敗については、コーチ自身が舞い上がっていて良く覚えてない。
北島に謝ったらうなずいていたからがっくり着てると思った。
北島と一緒にコーチも成長しているように見える。
北島よりも1歩でも半歩でも進んで導きたいと思っている。
選手に対することで大切にしていることは?
「ウソをつかないようにしている」良くても悪くてもそのまま。
北京五輪の200はメドがたったが、100はまだ。
大胆な泳法改良を考えていた。
200のゆったりしたピッチを100にも近づけようと考えていた。
大きいゆったりした泳ぎは結果的に疲れにくい。
中村のフォームも考えていた。けりが弱い。バサロの回数など変更したいところはある。
しかし本人は乗り気ではなかった。
北京入り。
攻めの泳ぎをする。
北島のライバルのハンセンがよくない。アレクサンダーが代わってでてきた。
100の準決勝。北島は予選よりもタイムを落とした。予想外の出来事。
不十分なアドバイスで北島を惑わせたかもしれない。
次の予選前には「タイムをあげていく」と声をかけた。ダーレオーエンにプレッシャーのつもり。
それが北島の力みを誘い、これまでの大きな泳ぎがなくなった、18ストロークが19ストロークに
なっていた。
アテネ後、故障が続き、勝って当然というプレッシャーにもがき続けた。
ようやくたどり着いた北京の決勝。負けるわけにはいかない。
準決勝を分析し、修正にとりかかった。
スタートの足の歩幅を小さく。泳ぎの修正は大きくゆったり。テンポをあげる。どちらも同タイムであること
で大きく泳いでも、タイムは落ちないことを確認。
そして決勝。
踏み台を丁寧にふいた北島。
100の決勝。スタートが決まり、トップにならんだ。
ゆったりとした大きな泳ぎ前半は16ストローク。後半爆発。58秒91世界記録。
平井のレース運びを100%信じた勝利。
北島がコーチに金メダルをかけた。
金メダルの瞬間覚えてますか?
ハイ。
50をターンしたとき、勝てると思った。ゴールタッチするまで見守ろうと思った。
掲示板が世界記録とあって感無量でした。
でむかえには行かずっと待ってた。待ってるうちに泣いてしまったが、
「先生の読みどおりでした」と北島がやってきた。
準決勝のとき、力みががあったけれどお互い口にしないでいた。
あの時は19ストロークで決勝は16ストローク。
フォームが完成されていて完璧だった。
コーチのいうことを信じてついてきてくれた北島。
その北島も大きな舞台で冷静に試合運びができる。
その翌日は中村礼子の決勝。100の背泳ぎ。予選よりもタイムを落とし6位。
平井は中村は精神的ものが大きいと感じていた。自分の作戦ミス。
アテネの銅メダルのあとも猛練習したが差は縮まらない。
200は絶対にメダルをとらせたかった。
2日後。200の予選突破。練習では体が重いという。弱気があると判断。50のタイムトライアル。
そして準決勝を通過。決勝に進出。
トップの二人は世界記録レベル。勝てる見込みは少ない。最大のライバルはべイゼルの3位争いになる。
「やってきたことを信じろ」
50のターンは4位。
100のターンここからロングスパート。
最後のターン。2分7秒13 日本記録
自己ベストを更新。自分との戦いに勝った。コーチが「礼子」と叫んでいた。
今回のオリンピックは選手の一歩先を歩いてたと思いますか?
そういう風に信じてます。
攻め続けた北京の夏。
プロフェッショナルとは
忍耐心と克己心を強くもてる人。
*****************
感動でしたねえ・・
この平井コーチに密着すると言う予告が6月ごろには出ていたのですが
もしも五輪で結果が出てなかったらこの企画はどうなるのかやや心配でした。
でも杞憂でしたね。
すばらしい。
精神的な重圧と体にかかる負荷での故障と、選手は常にプレッシャー。
それをはねのけて結果を出しました。
選手とコーチの二人三脚と言いますが本当にその通りなんですね。
一歩先を歩き、冷静な試合運びができる師であることが大事なのですね。
北京のレースの裏側をこの角度で見てますます面白く感じました。
08/27/2008 NHKプロフェッショナル (科学者 小池康博)
今週は少年時代鉄腕アトムに憧れた科学者小池康博さん。専門は「光」。
小池さんは毎年、ノーベル賞候補に挙がるそうです。
ケータイやノートパソコンの薄型ディスプレイの心臓部。
オフィスや家庭を劇的に変える次世代の光ファイバー。
革新的な技術を次々と世に送り出してきた。
光を自在に操ることのできる科学者。企業から共同研究のオファーは引きも切らない。
30代は闇を歩いたという。
「つきつめろ、そしてつきぬけろ」
川崎の郊外にある研究室。小池は慶応大の教授。大学の研究室が狭いためこの場所を借りている。
研究室には学生留学生企業からの出向者などの40人が所属する。
研究費は年間2億円。大学トップレベルの費用。
小池の専門は21世紀のキーテクノロジーといわれる光を操る技術。
高速の光通信から電子機器のディスプレイまで。暮らしを支える新技術。
その光を自在に操る特殊なプラスティックの開発で世界のトップを走る。
不可能と言われていたプラスティック製光ファイバーを実用化したことでその名を轟かせた。
現在主流のガラス製の光ファイバーは細かく曲げたり繋げることが容易ではない。
建物までは使えるが屋内では銅線や無線を使うのが一般的。そこで速度が落ちてしまう。
小池が実用化したプラスティック製は丈夫で自在に曲げられるため屋内の配線に使うことができる。
2時間の映画を数秒でダウンロードできる。
今小池たちは光を操るプラスティックをさらに進化させる研究に取り組んでいる。
現在進行中の研究テーマは30.
ノーベル賞級といわれる小池の研究に企業から共同研究の依頼が相次いでいる。
大手電気メーカー。取り出したのは数センチのプラスティック。これまでの倍の効率で光を導く。
これを使うと液晶テレビの厚さが1センチを切ることができるという。
独占契約をせず、複数の企業と技術が安く広く使われることを目指す。科学者として貫く信念。
「技術=子供」
研究をすることが自分の子供みたいなものだから一研究の対象ではないという。
大学のピアノを弾き、研究のイメージを音にしている即興。作曲もしていて200曲作ったとか。
「心のままに発想する」
大型ディスプレイは液晶などで青い色が抜けていくため電気的に色を補う方法が使われていたが、
小池は違った。青い色が抜ける問題そのものを解決しようとした。
特殊なプラスティックを開発して自然な色彩を再現して世界の科学者を驚かせた。
6月。一つの研究が大詰めを迎えていた。
プラスティックの合成をコンピューター上でシミュレーションするという試み。
これが完成すれば実験しなくてもよくなる。どんな特性を持ったプラスティックが生まれるかを
予測することができる。
担当は博士課程の浅井誠。
浅井自身が発案し1年前にスタートした。
中間報告を聞き終えて、小池は浅井が取り入れた最新理論そのものに疑問を呈し始めた。
大事な研究に向かうとき、絶対にゆるがせにできない流儀がある
「根本をつきつめろ」
研究には色んな要素ブラックボックスがでてくるがそのときは急がば回れじゃないけど基本に戻る
事が大事だという。そして更なる高見を目指す指針を示してやる。
彼はこの高いハードルをきっと越えてくるといっています。
「スタジオin」
楽しそうにしているのが印象的だという茂木さん。
好きだから楽しくできると応えています。
どのようなときに発想が浮かぶか?住吉さん。
机では浮かばず、学会や国際会議の帰り、飛行機にのりブラディマリーを飲むと決まって出てくる。
発想を出すのは「アイドリング」のときだという茂木さん。集中のあとのリラックスが引き出す。
プラスティックが登場。
レーザーをあてると光がくねくね曲がるのが見えました。延伸するとファイバーになる。
もう一つは粒子が入ったもの。レーザーを入れると全体が光る。多重錯乱という。
液晶ディスプレイのバックライトはこれを板にしているという。
黒くて大きな板はプロジェクターを当てると解像度のいいきれいな画像を出せる。
薄い板の中にたくさんの粒子を通って光が散らばっている。散り方のバランスがあって、
精密にコントロールして粒子を作っている。
ファイバートゥザディスプレイ。光ファイバーがディスプレイまで繋がることによって初めて
ハイビジョンの映像が外とフェイストゥフェイスのコミュニケーションができる。
テレビ電話がフルハイビジョンになったようなもの?どこでも窓状態にして病院とのコンタクトにも使える
フロンティア。光の科学の!
鉄腕アトムの漫画がありますが実家のある宝塚の近所に手塚さんが住んでいてもらったのかな?
アトムにあこがれ科学者の道を志した。出口の見えないものだったという。
科学で人の役にたちたいと思っていた。
高速通信ファイバーと出会ったのが運命の出会い。
21歳の時にプラスティックを使った光ファイバーの研究に取り組み始めた。
これが長いどん底生活の始まり。
プラスティックの光ファイバーで送った光は直進したり反射したりときちんと通信できない。
ファイバーの中心に不純物を入れ、直進する光野速度を遅らせる。
反射していた光は蛇行させ出口で光をそろえる。新しいファイバーを作り光を通してみた。
光は急速に衰え消えてしまった実験を続けた。6年立っても使い物にならず6mしか光は届かなかった。
その間にガラス製のファイバーが高速通信に成功。プラスティック製は見向きもされなくなった。
研究を始めて7年目、アメリカの大学から誘いがあった。知識をレンズの開発に活かさないかと。
「潮時かもしれない」
受け入れたが迷いが生じた。くすぶる思い。アインシュタインの光に関する数式。
やり方を変えればできるのではと思った。結局日本に残り、大学の助手をしながら夜は研究。
光が消える原因は何か。こつこつと調べ始めた。「光とは何か」根本まで調べた。
2年後。
基本的数式を見てふと思った。光の動きはぶつかる不純物が大きさや形などで変る。
プラスティックにいれた不純物に問題があったのではないか。
特殊な方法で不純物をこれまでの1/100、1ナノメートルにして光を通した。
光は消えることなく1気に100M先まで届いた。
研究を始めて14年要約長い迷路から抜け出せた。
スタジオin[
孤独は感じなかったか?住吉さん。
誰も助けてくれないし孤独だったという。日曜も研究室に通った。独身だったからできた無茶苦茶なくらし
土曜はジャズ喫茶に行き、悩みを解決しようとジャズを聞いていたころを思い出す。
100メートル光が通った瞬間。4/1のエイプリルフールの日。
良かったと思う前に次のことを考えている。でもその夜は寝られなかったそうです。
ブラックボックスがあることを知らないからそこを避けて通る人もいる。
14年間諦めずに研究を続けられたのはなぜ?好きだから。それにつきる。
逆境が不幸かというとそんなことじゃない。
勝負のプロジェクト。
プラスティック製光ファイバーの新素材。化学メーカーが生産体制の共同開発。
これの担当が博士課程の小池康太郎。名前が3文字同じ。息子かと聞かれたが偶然。
ニューヨークに留学し最新技術を学んできた若手の研究者。
近くの食堂に学生を誘い話をする。
6/16化学メーカー研究所によばれる。
光ファイバーの新しい生産設備ができていた。
問題が勃発。ファイバーの内部に穴があいてしまう。ストロー状態。
コストの関係で高温にするとその熱でプラスティックの内部に気泡ができる。
熱に耐える素材を開発すると約束。康太郎がアイディアを出した。小池は疑問を出す。
康太郎は素材の組み合わせ次第で透明なものができると力説。実験が始まった。
加戸貴洋とタッグを組んだ。異なる二つのプラスティックの組み合わせの割合。
1つのプラスティックに1週間かかる膨大な実験。
小池が康太郎を認めたのは若い学生が出す斬新なアイディアは革新的技術を生むから。
7/22 実験の報告。
耐熱データ。数値を見てすごいといってます。熱に強いプラスティックができた様子。
しかし外側が白く濁っていた。このままでは光が通らない。
康太郎はメーカーが最新設備を使えばできると主張した。
急ぐ康太郎を諌めた。根本に立ち返ってみる。
「科学者の責任」
我々が自信を持って示さなくてはならない。ブラックボックスのない状態で。
それが科学者の責任だと教えた。
悩みつつ持ち帰った康太郎。
プロフェッショナルとは
誠実に一歩一歩未来を作っていく。
未来を予測するだけじゃなく未来を作っていける人がプロフェッショナル。
*******************
すっかりおなじみな光ファイバーでしたが、ガラス製をプラスティック製が取って代わったことや
それの実用化のことなどすごく興味深かった。
長いトンネルからの脱出には本当によかったと声がでます。
専門用語が飛び交ってよくわからないのが残念でした。
科学者として必要な責任のあり方。
安く広く誰にでも利用できるようにしてくれたおかげで低価格にできるということですね。
すばらしい信念です!
鉄腕アトムに憧れて科学者として人の役に立ちたいと願ったその心が貴く、
小池教授を慕う学生に恵まれたのも凄いと思いました。
次は 水泳コーチ 平井伯昌 45歳
ケータイやノートパソコンの薄型ディスプレイの心臓部。
オフィスや家庭を劇的に変える次世代の光ファイバー。
革新的な技術を次々と世に送り出してきた。
光を自在に操ることのできる科学者。企業から共同研究のオファーは引きも切らない。
30代は闇を歩いたという。
「つきつめろ、そしてつきぬけろ」
川崎の郊外にある研究室。小池は慶応大の教授。大学の研究室が狭いためこの場所を借りている。
研究室には学生留学生企業からの出向者などの40人が所属する。
研究費は年間2億円。大学トップレベルの費用。
小池の専門は21世紀のキーテクノロジーといわれる光を操る技術。
高速の光通信から電子機器のディスプレイまで。暮らしを支える新技術。
その光を自在に操る特殊なプラスティックの開発で世界のトップを走る。
不可能と言われていたプラスティック製光ファイバーを実用化したことでその名を轟かせた。
現在主流のガラス製の光ファイバーは細かく曲げたり繋げることが容易ではない。
建物までは使えるが屋内では銅線や無線を使うのが一般的。そこで速度が落ちてしまう。
小池が実用化したプラスティック製は丈夫で自在に曲げられるため屋内の配線に使うことができる。
2時間の映画を数秒でダウンロードできる。
今小池たちは光を操るプラスティックをさらに進化させる研究に取り組んでいる。
現在進行中の研究テーマは30.
ノーベル賞級といわれる小池の研究に企業から共同研究の依頼が相次いでいる。
大手電気メーカー。取り出したのは数センチのプラスティック。これまでの倍の効率で光を導く。
これを使うと液晶テレビの厚さが1センチを切ることができるという。
独占契約をせず、複数の企業と技術が安く広く使われることを目指す。科学者として貫く信念。
「技術=子供」
研究をすることが自分の子供みたいなものだから一研究の対象ではないという。
大学のピアノを弾き、研究のイメージを音にしている即興。作曲もしていて200曲作ったとか。
「心のままに発想する」
大型ディスプレイは液晶などで青い色が抜けていくため電気的に色を補う方法が使われていたが、
小池は違った。青い色が抜ける問題そのものを解決しようとした。
特殊なプラスティックを開発して自然な色彩を再現して世界の科学者を驚かせた。
6月。一つの研究が大詰めを迎えていた。
プラスティックの合成をコンピューター上でシミュレーションするという試み。
これが完成すれば実験しなくてもよくなる。どんな特性を持ったプラスティックが生まれるかを
予測することができる。
担当は博士課程の浅井誠。
浅井自身が発案し1年前にスタートした。
中間報告を聞き終えて、小池は浅井が取り入れた最新理論そのものに疑問を呈し始めた。
大事な研究に向かうとき、絶対にゆるがせにできない流儀がある
「根本をつきつめろ」
研究には色んな要素ブラックボックスがでてくるがそのときは急がば回れじゃないけど基本に戻る
事が大事だという。そして更なる高見を目指す指針を示してやる。
彼はこの高いハードルをきっと越えてくるといっています。
「スタジオin」
楽しそうにしているのが印象的だという茂木さん。
好きだから楽しくできると応えています。
どのようなときに発想が浮かぶか?住吉さん。
机では浮かばず、学会や国際会議の帰り、飛行機にのりブラディマリーを飲むと決まって出てくる。
発想を出すのは「アイドリング」のときだという茂木さん。集中のあとのリラックスが引き出す。
プラスティックが登場。
レーザーをあてると光がくねくね曲がるのが見えました。延伸するとファイバーになる。
もう一つは粒子が入ったもの。レーザーを入れると全体が光る。多重錯乱という。
液晶ディスプレイのバックライトはこれを板にしているという。
黒くて大きな板はプロジェクターを当てると解像度のいいきれいな画像を出せる。
薄い板の中にたくさんの粒子を通って光が散らばっている。散り方のバランスがあって、
精密にコントロールして粒子を作っている。
ファイバートゥザディスプレイ。光ファイバーがディスプレイまで繋がることによって初めて
ハイビジョンの映像が外とフェイストゥフェイスのコミュニケーションができる。
テレビ電話がフルハイビジョンになったようなもの?どこでも窓状態にして病院とのコンタクトにも使える
フロンティア。光の科学の!
鉄腕アトムの漫画がありますが実家のある宝塚の近所に手塚さんが住んでいてもらったのかな?
アトムにあこがれ科学者の道を志した。出口の見えないものだったという。
科学で人の役にたちたいと思っていた。
高速通信ファイバーと出会ったのが運命の出会い。
21歳の時にプラスティックを使った光ファイバーの研究に取り組み始めた。
これが長いどん底生活の始まり。
プラスティックの光ファイバーで送った光は直進したり反射したりときちんと通信できない。
ファイバーの中心に不純物を入れ、直進する光野速度を遅らせる。
反射していた光は蛇行させ出口で光をそろえる。新しいファイバーを作り光を通してみた。
光は急速に衰え消えてしまった実験を続けた。6年立っても使い物にならず6mしか光は届かなかった。
その間にガラス製のファイバーが高速通信に成功。プラスティック製は見向きもされなくなった。
研究を始めて7年目、アメリカの大学から誘いがあった。知識をレンズの開発に活かさないかと。
「潮時かもしれない」
受け入れたが迷いが生じた。くすぶる思い。アインシュタインの光に関する数式。
やり方を変えればできるのではと思った。結局日本に残り、大学の助手をしながら夜は研究。
光が消える原因は何か。こつこつと調べ始めた。「光とは何か」根本まで調べた。
2年後。
基本的数式を見てふと思った。光の動きはぶつかる不純物が大きさや形などで変る。
プラスティックにいれた不純物に問題があったのではないか。
特殊な方法で不純物をこれまでの1/100、1ナノメートルにして光を通した。
光は消えることなく1気に100M先まで届いた。
研究を始めて14年要約長い迷路から抜け出せた。
スタジオin[
孤独は感じなかったか?住吉さん。
誰も助けてくれないし孤独だったという。日曜も研究室に通った。独身だったからできた無茶苦茶なくらし
土曜はジャズ喫茶に行き、悩みを解決しようとジャズを聞いていたころを思い出す。
100メートル光が通った瞬間。4/1のエイプリルフールの日。
良かったと思う前に次のことを考えている。でもその夜は寝られなかったそうです。
ブラックボックスがあることを知らないからそこを避けて通る人もいる。
14年間諦めずに研究を続けられたのはなぜ?好きだから。それにつきる。
逆境が不幸かというとそんなことじゃない。
勝負のプロジェクト。
プラスティック製光ファイバーの新素材。化学メーカーが生産体制の共同開発。
これの担当が博士課程の小池康太郎。名前が3文字同じ。息子かと聞かれたが偶然。
ニューヨークに留学し最新技術を学んできた若手の研究者。
近くの食堂に学生を誘い話をする。
6/16化学メーカー研究所によばれる。
光ファイバーの新しい生産設備ができていた。
問題が勃発。ファイバーの内部に穴があいてしまう。ストロー状態。
コストの関係で高温にするとその熱でプラスティックの内部に気泡ができる。
熱に耐える素材を開発すると約束。康太郎がアイディアを出した。小池は疑問を出す。
康太郎は素材の組み合わせ次第で透明なものができると力説。実験が始まった。
加戸貴洋とタッグを組んだ。異なる二つのプラスティックの組み合わせの割合。
1つのプラスティックに1週間かかる膨大な実験。
小池が康太郎を認めたのは若い学生が出す斬新なアイディアは革新的技術を生むから。
7/22 実験の報告。
耐熱データ。数値を見てすごいといってます。熱に強いプラスティックができた様子。
しかし外側が白く濁っていた。このままでは光が通らない。
康太郎はメーカーが最新設備を使えばできると主張した。
急ぐ康太郎を諌めた。根本に立ち返ってみる。
「科学者の責任」
我々が自信を持って示さなくてはならない。ブラックボックスのない状態で。
それが科学者の責任だと教えた。
悩みつつ持ち帰った康太郎。
プロフェッショナルとは
誠実に一歩一歩未来を作っていく。
未来を予測するだけじゃなく未来を作っていける人がプロフェッショナル。
*******************
すっかりおなじみな光ファイバーでしたが、ガラス製をプラスティック製が取って代わったことや
それの実用化のことなどすごく興味深かった。
長いトンネルからの脱出には本当によかったと声がでます。
専門用語が飛び交ってよくわからないのが残念でした。
科学者として必要な責任のあり方。
安く広く誰にでも利用できるようにしてくれたおかげで低価格にできるということですね。
すばらしい信念です!
鉄腕アトムに憧れて科学者として人の役に立ちたいと願ったその心が貴く、
小池教授を慕う学生に恵まれたのも凄いと思いました。
次は 水泳コーチ 平井伯昌 45歳
08/06/2008 NHKプロフェッショナル (映画監督 宮崎駿)
生み出す力というか創造と想像は苦しい作業だとつくづく思います。その苦しさを乗り越えた監督。
原点は母への思慕でしょうか。
7/19。4年の歳月を掛けた新作の初日。日比谷の映画館。
「崖の上のポニョ」
5歳の少年宗介と魚の子、ポニョが出会い、始まるファンタジー。
監督の最後の長編という作品。カメラは300日間、宮崎を追った。
「宮崎駿のすべて。ポニョ密着300日」
東京郊外にある宮崎のアトリエ。10時過ぎに出勤。コーヒーを飲み、スタジオに向かう。
・・・宗介を好きになったポニョが人間に姿を変えて大津波にのってやってくる・・・
手作業でカットを描く。色彩などのスタッフは350人。
宮崎は絵コンテ(キャラの動き、セリフ)を書き、アニメーターに指示出し。
独特の言葉で自分のイメージを伝える宮崎。その仕事の流儀は、
「映画の奴隷になる」
スタッフ全員に映画に持てる全てを捧げることを求めた。
ベテランアニメーターが描いた絵を否定して描き直しています。
ほんの一瞬に登場する鳥でさえもその絵で飛ぶかどうかが見分けられる。
細かい部分にも魂をこめて描いてほしいという要求がスタッフに出されています。
かなり厳しい言い方をしていましたがスタッフの方の顔も映しているので気の毒な気がしました・・。
でもこの厳しさが宮崎の映画を支えているし、だからこそスタッフもついていくんですね。
06年冬。アトリエで絵を書き散らしながら構想をねりあげている。
06年5月。初めて構想をスタッフに明かした。
・・ポニョという人面魚が海という(大きなイメージ)のお母さんとフジモトというお父さんから生まれた。
イメージボードを作り映画を育てていく。少しずつ自分のイメージを開いていく。
アイディアを発想するときに大切にしている流儀。
「半径3メートル以内で仕事をする」
身の回りで出あったことをてこにして想像を膨らませる。
「となりのトトロ」はうらぶれた近所のバス停ガ物語の出発点になった。
今回の人面魚ポニョも身近なところで育っていく。
スタッフの愛娘、フキちゃんは1歳。今でも哺乳瓶で飲むミルクは自分じゃなくて人に飲ませて
もらわないと怒ってしまう気の強い子だとか。それが宮崎のお気に入り。
ポニョもわがまま。宗介が好きだからと町を津波で沈めてしまうくらいのエネルギー。
それでも宗介に会いにいく。恐いけどハチャメチャでかわいいヒロイン。
絵コンテではピラニアのように宗佑のサンドイッチにくらいつくポニョ。
絵コンテができるとアニメーターがアニメに描いていく。その線を全部チェック。
見ていてもかわいいすごい絵だと思うけど、宮崎が見ると生きていないみたいです・・ううん厳しい。
宗介とポニョの再会の重要シーン。ポニョの気持ちが反映されてないと自分で描き直した。
抱っこされたポニョが足を反り返らせ裾を膨らませることで気持ちを表現させた。
手直しの作業でキャラクターの深い理解につながり同時にその行動を想像していく。
わがままではちゃめちゃなポニョ。人間の世界でうまく暮らしていけるのか。将来が心配になった。
ポニョが人間の世界で生きていけるような何らかのシーンを挿入。
絵コンテ。ある家族と出会いサンドイッチを分けてあげる。初めて人に何かをあげるシーン。
子供にとっては大きな意味のあること。書きながらポニョのイメージが広がっていく。
赤ちゃんが変な顔をしているのに気づき、こねくりまわすポニョ。
ポニョが人間になったときちゃんと思いやりやいたわりを持っている子だというシーンを入れる。
スタジオの住吉さんは宮崎さんの作品は主人公のキャラがどんどん変わっていくという話をします。
脳科学的には絵コンテやボードに描いてしまうとイメージが固まってしまうという茂木さん。
普通なら自由度を失うのに、キャラを変えていけるのは宮崎さんのすばらしい能力だといいました。
二人で宮崎のアトリエを訪ねていきます。
自分の意思とは裏腹に最後の作品とならざるを得ないかもしれないという宮崎監督。
朝には絶好調でも昼にはぼろぼろになっている。年齢を感じているという話です。
健康管理。たわしで体をマッサージしたりストレッチして近所のゴミを拾ったり。
駅まで歩いてコーヒーを飲んでくる・・・。スタジオから出たら頭を空っぽにする。
家に着くまでバスを数える。絵コンテを出してくれました。色をつけたのは初めて。
絵コンテが画面になるとリアリティーが増えて行くと言う監督。
海のクラゲが上がっていく12秒用のシーン。クラゲがどこから来てどうやってあがるか。
そのシーンが手作業で一番手がかかった。そのためのカットがダンボールに入っていましたが
1613枚!びっくりしますねえ・・・。全部で17万枚・・・
手書きにこだわる理由は周りがコンピューターだから手書きが生きてくる。
宮崎駿のフイルムを出しています。天空の城ラピュタ、もものけ姫、千と千尋・・いろいろありますが
懐かしいのは魔女の宅急便かな・。
2005年ベネチア国際映画祭。受賞しても作り続ける監督。
1988年のとなりのトトロでは母が病気で死ぬかもしれないという怯えが出ていましたが、
それは宮崎の子供のころの投影だそうです。
昭和16年誕生。4人兄弟の次男。胃腸が弱くて20歳まで生きられないといわれた。
体が弱く劣等感のかたまり。6歳の時、母が病に倒れた。結核菌が脊椎を冒す病気で寝たきり。
勝気な母が寝返りすら打てなくなった。母におんぶをせがんだものの涙ながらに断られた記憶がある。
母に甘えることもできずいい子を装い、屈折していった。
「生まれてこなければよかった」
宮崎の心を癒したのは手塚治虫の漫画。むさぼるように本を読み絵を描いていた。
だから兄は普通のサラリーマンなどできないだろうと一番心配していたという。
高校三年の時にみた「白蛇伝」という日本初のカラーアニメ映画を見たことでアニメに魅かれていった。
大学卒業後に白蛇伝の会社に就職。宮崎の才能はずばぬけていた。新人とは思えない想像力が話題
になったという。先輩もこの人は凄いと思ったという。高畑勲と組み、話題作を生み出した。
33歳の時、「アルプスの少女ハイジ」子供の目線でカメラを低く、山の起伏を躍動的に。
「人を楽しませたい」
楽しんでもらえたら自分の存在が許されるから。
母は病気の後遺症で不自由しながらも宮崎の作品を楽しみにしていた。
宮崎は「自分の作品を作りたい」という欲求がうまれてきていた。
そこに監督の仕事が入ってきた。「ルパン三世 カリオストロの城」38歳、遅いデビューだった。
斬新なアクションシーンが専門家から高い評価を受けた。
しかし時はSFブーム。宇宙戦艦ヤマトなどが全盛期。監督にはそれっきり仕事がこなくなった。
企画を考えてはテレビ局に売り込んだ。オオヤマネコが人間に恋をするもののけ姫。
森に棲むお化けが活躍するとなりのトトロ。天空に浮かぶ城が登場する戦国魔城。
どれも採用されず酷評。あいつの企画は馬糞くさい。業界では見向きもされなかった。
テレビアニメで食いつなぎながら企画を出し続けた。
「人を楽しませることができなければ存在する意味がない」
焦りのなかでもがき続けていた。くたばるわけにはいかないけどアニメをとにかくやりたかった。
アニメの雑誌の編集長鈴木敏夫がやってきた。雑誌でマンガを掲載しないかともちかけた。
渋々引き受けた。
人を殺め心に傷を負ったナウシカ。マンガの人気が高まり映画の話が出てきた。
これが最後のチャンス。監督を引き受けた。
その矢先、母の訃報。病魔と闘い続けた72歳だった。死に目に立ち会えなかったという。
「風の谷のナウシカ」43歳の時の作品。
運命に負けず強く生きようとするナウシカの姿が共感を呼び91万人の動員。ヒットとなった。
その後の作品には母を幾度も登場させている。
天空の城ラピュタには海賊ドーラ。元気で男勝りだった母を重ねた。
となりのトトロの母は病気と闘いながら子ども達を見守る母。
ハウルの動く城のソフィーは気丈で優しかった母が投影されている。
優しくしようとするとついきつい言葉が出てくるような母だった。
今でも同じぐらいの人と話をして母を感じてみたいような気持ちになる。
亡くなった友人の話もしていました。鈍くさいやつだったからまだそのその辺を彷徨ってるかもしれない。
しょうがないからちゃんと家に連れて行ってやろうと思って病院まで行き、そこに友人がいるつもりで
エレベータも少しゆっくりあけたままに。車の助手席も空けてやってのせた。
家の前にきて「ここまできたらわかるだろう」と言って送り出した。自分のなかでけじめをつけた感じ。
それで気持ちが楽になった。
企画が通らなかった3年間はスタッフが最高に良かった時期。怒りがわいてくるそうです。
トトロは企画を出してから13年後に映画になった。引き出しに溜まり内容が豊富になっていった。
映画を作るとはどういうことですか?by茂木さん
楽しませられなかったら存在する意味がないというところにたどり着く。
一番嬉しいのは誰かが喜んだときですか?by住吉さん
千と千尋をアメリカで上映したとき、私の10歳はこんなステキな10歳じゃなかったといっていた。
報われたと思ったという。
「最後の挑戦」
ポニョ公開まで1年を切った去年の夏、アニメスタジオの社員用に作った保育園の上棟式。
すごい・・保育園も自前で作った!!子供達の思い出になるような建物にしたいと述べた。
物語は終盤。アニメーターの描いた絵が上がってくる。宮崎のチェックがはかどらない。
作業量は若いときの1/5.。疲労のせいでカットがたまっていく。
ある日苛立っていた。かつてともに作品を作り上げた仲間、奥山さんが亡くなったという。
仲間の死はひとごとではない。人生も映画もいつか終わりになる。
最後の幕をどう下ろすか・・・。
絵コンテは最後のワサビが足りないという難問があった・・。
ラストシーンの構想はあった。後半から宗介が成長していく物語。
ラストの前にもうひと山何かの場面を作りたい。
物語の本筋ではなく印象に残るシーン。
マッサージを受ける監督。疲労を和らげるために。宮崎は弱気になっていた。時間がないという・・。
お袋に会えるなら、一番可愛いかったときのお袋に会いたい。
ポニョの中にも母親の役を登場させていた。デイケアに通う気の強いおばあさんトキ。
秋になっても絵コンテは進まない。そのためスケジュールが詰まってきていた。追い込まれてしまった。
10/24.一冊のノートを見ていた。
セリフを読み、考え検討。5歳の子供がいうセリフにするためにオトナのつまらないセリフは捨てる。
12/3 映画の記者会見。歌の披露。♪ポニョ ポニョ ポニョ 膨らんだ♪
絵コンテを書いているが間に合いそうですか?by記者 「・・・笑・・・」
イメージソングを聞いてみる。
♪お迎えはまだ来ないからその前にちょっとだけ歩かせてもう一度だけ踊りたい、そよかぜになって♪
俺はおふくろを思い出してダメなんだ・・・涙
「母へ」
72歳で亡くなった母。病魔との闘いだった。やっと楽になれたと言ったという。
どうすればおふくろはもっと生き生きといきられただろうと思ったりする。
12/12
宗介の前に謎の人物が立ちはだかる。バケツに入ったポニョを守ると宗介が逃げ出すというシーン。
そこに「宗介」トキが助けにやってくる。
12/18
アニメーターが描いたトキのカットを手にとった。
病気で幼い子供を抱くこともままならず晩年は歩くこともできなかった母。
本当にあることを描いていく。
12/26
締め切りまで一週間をきった。
宗介がトキに向かって走りだした。それを見てトキは・・・
歩けないはずのトキが宗介を心配するあまり立ち上がった。「宗介」
トキは走り始めた。驚くべき速さで階段を駆け下りる。「宗介おいで」と叫んだ。
12/28 年末の仕事納め。スタッフは掃除をしています。
宮崎は絵コンテ。
トキに呼ばれた宗介はトキにむかって飛んだ。
残りは決めのカット。母と最後にどう向き合うか。
トキは正面から宗介を抱きしめた。
08/1/5
餅つき。67歳になった。誕生日のケーキ。ぬいぐるみに入った湯たんぽをもらう。
絵コンテを描き始めて1年半。ハッピーエンド。
08年6月 映画完成。試写会。
涙・・涙・・・嬉しそうでした。
*****************
ただお母さんの姿を求めている監督にちょっと涙でした。
お母さんが抱っこしてくてもできなかったことを子供ながらも我慢し、それをずっと心に残していた。
最後の最後でトキが抱っこしたのは5歳の監督だった。
実は宮崎駿の映画は魔女の宅急便しか見てないのですが
ポニョを見に行きたくなりました。
きっと泣くだろうな・・・
90分、長かったけど、アニメの作り方も創作の仕方も勉強になりました。
次回は8/26 科学者 小池康博
7/19。4年の歳月を掛けた新作の初日。日比谷の映画館。
「崖の上のポニョ」
5歳の少年宗介と魚の子、ポニョが出会い、始まるファンタジー。
監督の最後の長編という作品。カメラは300日間、宮崎を追った。
「宮崎駿のすべて。ポニョ密着300日」
東京郊外にある宮崎のアトリエ。10時過ぎに出勤。コーヒーを飲み、スタジオに向かう。
・・・宗介を好きになったポニョが人間に姿を変えて大津波にのってやってくる・・・
手作業でカットを描く。色彩などのスタッフは350人。
宮崎は絵コンテ(キャラの動き、セリフ)を書き、アニメーターに指示出し。
独特の言葉で自分のイメージを伝える宮崎。その仕事の流儀は、
「映画の奴隷になる」
スタッフ全員に映画に持てる全てを捧げることを求めた。
ベテランアニメーターが描いた絵を否定して描き直しています。
ほんの一瞬に登場する鳥でさえもその絵で飛ぶかどうかが見分けられる。
細かい部分にも魂をこめて描いてほしいという要求がスタッフに出されています。
かなり厳しい言い方をしていましたがスタッフの方の顔も映しているので気の毒な気がしました・・。
でもこの厳しさが宮崎の映画を支えているし、だからこそスタッフもついていくんですね。
06年冬。アトリエで絵を書き散らしながら構想をねりあげている。
06年5月。初めて構想をスタッフに明かした。
・・ポニョという人面魚が海という(大きなイメージ)のお母さんとフジモトというお父さんから生まれた。
イメージボードを作り映画を育てていく。少しずつ自分のイメージを開いていく。
アイディアを発想するときに大切にしている流儀。
「半径3メートル以内で仕事をする」
身の回りで出あったことをてこにして想像を膨らませる。
「となりのトトロ」はうらぶれた近所のバス停ガ物語の出発点になった。
今回の人面魚ポニョも身近なところで育っていく。
スタッフの愛娘、フキちゃんは1歳。今でも哺乳瓶で飲むミルクは自分じゃなくて人に飲ませて
もらわないと怒ってしまう気の強い子だとか。それが宮崎のお気に入り。
ポニョもわがまま。宗介が好きだからと町を津波で沈めてしまうくらいのエネルギー。
それでも宗介に会いにいく。恐いけどハチャメチャでかわいいヒロイン。
絵コンテではピラニアのように宗佑のサンドイッチにくらいつくポニョ。
絵コンテができるとアニメーターがアニメに描いていく。その線を全部チェック。
見ていてもかわいいすごい絵だと思うけど、宮崎が見ると生きていないみたいです・・ううん厳しい。
宗介とポニョの再会の重要シーン。ポニョの気持ちが反映されてないと自分で描き直した。
抱っこされたポニョが足を反り返らせ裾を膨らませることで気持ちを表現させた。
手直しの作業でキャラクターの深い理解につながり同時にその行動を想像していく。
わがままではちゃめちゃなポニョ。人間の世界でうまく暮らしていけるのか。将来が心配になった。
ポニョが人間の世界で生きていけるような何らかのシーンを挿入。
絵コンテ。ある家族と出会いサンドイッチを分けてあげる。初めて人に何かをあげるシーン。
子供にとっては大きな意味のあること。書きながらポニョのイメージが広がっていく。
赤ちゃんが変な顔をしているのに気づき、こねくりまわすポニョ。
ポニョが人間になったときちゃんと思いやりやいたわりを持っている子だというシーンを入れる。
スタジオの住吉さんは宮崎さんの作品は主人公のキャラがどんどん変わっていくという話をします。
脳科学的には絵コンテやボードに描いてしまうとイメージが固まってしまうという茂木さん。
普通なら自由度を失うのに、キャラを変えていけるのは宮崎さんのすばらしい能力だといいました。
二人で宮崎のアトリエを訪ねていきます。
自分の意思とは裏腹に最後の作品とならざるを得ないかもしれないという宮崎監督。
朝には絶好調でも昼にはぼろぼろになっている。年齢を感じているという話です。
健康管理。たわしで体をマッサージしたりストレッチして近所のゴミを拾ったり。
駅まで歩いてコーヒーを飲んでくる・・・。スタジオから出たら頭を空っぽにする。
家に着くまでバスを数える。絵コンテを出してくれました。色をつけたのは初めて。
絵コンテが画面になるとリアリティーが増えて行くと言う監督。
海のクラゲが上がっていく12秒用のシーン。クラゲがどこから来てどうやってあがるか。
そのシーンが手作業で一番手がかかった。そのためのカットがダンボールに入っていましたが
1613枚!びっくりしますねえ・・・。全部で17万枚・・・
手書きにこだわる理由は周りがコンピューターだから手書きが生きてくる。
宮崎駿のフイルムを出しています。天空の城ラピュタ、もものけ姫、千と千尋・・いろいろありますが
懐かしいのは魔女の宅急便かな・。
2005年ベネチア国際映画祭。受賞しても作り続ける監督。
1988年のとなりのトトロでは母が病気で死ぬかもしれないという怯えが出ていましたが、
それは宮崎の子供のころの投影だそうです。
昭和16年誕生。4人兄弟の次男。胃腸が弱くて20歳まで生きられないといわれた。
体が弱く劣等感のかたまり。6歳の時、母が病に倒れた。結核菌が脊椎を冒す病気で寝たきり。
勝気な母が寝返りすら打てなくなった。母におんぶをせがんだものの涙ながらに断られた記憶がある。
母に甘えることもできずいい子を装い、屈折していった。
「生まれてこなければよかった」
宮崎の心を癒したのは手塚治虫の漫画。むさぼるように本を読み絵を描いていた。
だから兄は普通のサラリーマンなどできないだろうと一番心配していたという。
高校三年の時にみた「白蛇伝」という日本初のカラーアニメ映画を見たことでアニメに魅かれていった。
大学卒業後に白蛇伝の会社に就職。宮崎の才能はずばぬけていた。新人とは思えない想像力が話題
になったという。先輩もこの人は凄いと思ったという。高畑勲と組み、話題作を生み出した。
33歳の時、「アルプスの少女ハイジ」子供の目線でカメラを低く、山の起伏を躍動的に。
「人を楽しませたい」
楽しんでもらえたら自分の存在が許されるから。
母は病気の後遺症で不自由しながらも宮崎の作品を楽しみにしていた。
宮崎は「自分の作品を作りたい」という欲求がうまれてきていた。
そこに監督の仕事が入ってきた。「ルパン三世 カリオストロの城」38歳、遅いデビューだった。
斬新なアクションシーンが専門家から高い評価を受けた。
しかし時はSFブーム。宇宙戦艦ヤマトなどが全盛期。監督にはそれっきり仕事がこなくなった。
企画を考えてはテレビ局に売り込んだ。オオヤマネコが人間に恋をするもののけ姫。
森に棲むお化けが活躍するとなりのトトロ。天空に浮かぶ城が登場する戦国魔城。
どれも採用されず酷評。あいつの企画は馬糞くさい。業界では見向きもされなかった。
テレビアニメで食いつなぎながら企画を出し続けた。
「人を楽しませることができなければ存在する意味がない」
焦りのなかでもがき続けていた。くたばるわけにはいかないけどアニメをとにかくやりたかった。
アニメの雑誌の編集長鈴木敏夫がやってきた。雑誌でマンガを掲載しないかともちかけた。
渋々引き受けた。
人を殺め心に傷を負ったナウシカ。マンガの人気が高まり映画の話が出てきた。
これが最後のチャンス。監督を引き受けた。
その矢先、母の訃報。病魔と闘い続けた72歳だった。死に目に立ち会えなかったという。
「風の谷のナウシカ」43歳の時の作品。
運命に負けず強く生きようとするナウシカの姿が共感を呼び91万人の動員。ヒットとなった。
その後の作品には母を幾度も登場させている。
天空の城ラピュタには海賊ドーラ。元気で男勝りだった母を重ねた。
となりのトトロの母は病気と闘いながら子ども達を見守る母。
ハウルの動く城のソフィーは気丈で優しかった母が投影されている。
優しくしようとするとついきつい言葉が出てくるような母だった。
今でも同じぐらいの人と話をして母を感じてみたいような気持ちになる。
亡くなった友人の話もしていました。鈍くさいやつだったからまだそのその辺を彷徨ってるかもしれない。
しょうがないからちゃんと家に連れて行ってやろうと思って病院まで行き、そこに友人がいるつもりで
エレベータも少しゆっくりあけたままに。車の助手席も空けてやってのせた。
家の前にきて「ここまできたらわかるだろう」と言って送り出した。自分のなかでけじめをつけた感じ。
それで気持ちが楽になった。
企画が通らなかった3年間はスタッフが最高に良かった時期。怒りがわいてくるそうです。
トトロは企画を出してから13年後に映画になった。引き出しに溜まり内容が豊富になっていった。
映画を作るとはどういうことですか?by茂木さん
楽しませられなかったら存在する意味がないというところにたどり着く。
一番嬉しいのは誰かが喜んだときですか?by住吉さん
千と千尋をアメリカで上映したとき、私の10歳はこんなステキな10歳じゃなかったといっていた。
報われたと思ったという。
「最後の挑戦」
ポニョ公開まで1年を切った去年の夏、アニメスタジオの社員用に作った保育園の上棟式。
すごい・・保育園も自前で作った!!子供達の思い出になるような建物にしたいと述べた。
物語は終盤。アニメーターの描いた絵が上がってくる。宮崎のチェックがはかどらない。
作業量は若いときの1/5.。疲労のせいでカットがたまっていく。
ある日苛立っていた。かつてともに作品を作り上げた仲間、奥山さんが亡くなったという。
仲間の死はひとごとではない。人生も映画もいつか終わりになる。
最後の幕をどう下ろすか・・・。
絵コンテは最後のワサビが足りないという難問があった・・。
ラストシーンの構想はあった。後半から宗介が成長していく物語。
ラストの前にもうひと山何かの場面を作りたい。
物語の本筋ではなく印象に残るシーン。
マッサージを受ける監督。疲労を和らげるために。宮崎は弱気になっていた。時間がないという・・。
お袋に会えるなら、一番可愛いかったときのお袋に会いたい。
ポニョの中にも母親の役を登場させていた。デイケアに通う気の強いおばあさんトキ。
秋になっても絵コンテは進まない。そのためスケジュールが詰まってきていた。追い込まれてしまった。
10/24.一冊のノートを見ていた。
セリフを読み、考え検討。5歳の子供がいうセリフにするためにオトナのつまらないセリフは捨てる。
12/3 映画の記者会見。歌の披露。♪ポニョ ポニョ ポニョ 膨らんだ♪
絵コンテを書いているが間に合いそうですか?by記者 「・・・笑・・・」
イメージソングを聞いてみる。
♪お迎えはまだ来ないからその前にちょっとだけ歩かせてもう一度だけ踊りたい、そよかぜになって♪
俺はおふくろを思い出してダメなんだ・・・涙
「母へ」
72歳で亡くなった母。病魔との闘いだった。やっと楽になれたと言ったという。
どうすればおふくろはもっと生き生きといきられただろうと思ったりする。
12/12
宗介の前に謎の人物が立ちはだかる。バケツに入ったポニョを守ると宗介が逃げ出すというシーン。
そこに「宗介」トキが助けにやってくる。
12/18
アニメーターが描いたトキのカットを手にとった。
病気で幼い子供を抱くこともままならず晩年は歩くこともできなかった母。
本当にあることを描いていく。
12/26
締め切りまで一週間をきった。
宗介がトキに向かって走りだした。それを見てトキは・・・
歩けないはずのトキが宗介を心配するあまり立ち上がった。「宗介」
トキは走り始めた。驚くべき速さで階段を駆け下りる。「宗介おいで」と叫んだ。
12/28 年末の仕事納め。スタッフは掃除をしています。
宮崎は絵コンテ。
トキに呼ばれた宗介はトキにむかって飛んだ。
残りは決めのカット。母と最後にどう向き合うか。
トキは正面から宗介を抱きしめた。
08/1/5
餅つき。67歳になった。誕生日のケーキ。ぬいぐるみに入った湯たんぽをもらう。
絵コンテを描き始めて1年半。ハッピーエンド。
08年6月 映画完成。試写会。
涙・・涙・・・嬉しそうでした。
*****************
ただお母さんの姿を求めている監督にちょっと涙でした。
お母さんが抱っこしてくてもできなかったことを子供ながらも我慢し、それをずっと心に残していた。
最後の最後でトキが抱っこしたのは5歳の監督だった。
実は宮崎駿の映画は魔女の宅急便しか見てないのですが
ポニョを見に行きたくなりました。
きっと泣くだろうな・・・
90分、長かったけど、アニメの作り方も創作の仕方も勉強になりました。
次回は8/26 科学者 小池康博
07/23/2008 NHKプロフェッショナル (板金職人 国村次郎)
職人さんの登場です。新幹線の顔を作り続けた男。
新幹線のフォルムが流線型ですがこの流れるような美しさを作り上げる職人さんの技があった。
瀬戸内海の町工場でハンマーをふるう国村次郎さん63歳。
「ハンマー一筋、新幹線を作る」
山口県下松市。新幹線の町。大小20あまりの工場がある。多いときは年間100両以上出荷される。
始業30分前に出勤。
工場は職人11人。国村は工場長として束ねる。
扱うのは列車の先頭車両。車体の外張り、窓枠、計器盤などの加工。
車両メーカーの技術者が毎週訪れてくる。
この日は新幹線のプロトタイプの打ち合わせ。新たなデザインが国村たちの技術でできるかどうか。
国村は高度な要求にも知恵を絞り、方策を編み出す。
「できないとは言わない」
得意なのはハンマーを使い金属から曲面を作る「打ち出し板金」
金属をハンマーで叩くと凹むが周囲が戻ろうとする力が生じる。そのとき少し面が上がる。
これを繰り返すことで金属を曲面へと仕上げる。
「治具」
作業は治具と呼ばれる実寸代の型をもとに行われる。
単純に見える打ち技の影に職人技がかくされている。狙ったところを正確に打つ。
左手と足を微妙に動かしながら。そして
「無駄に打たない」
どこにどのスピードで打てばいいか読みきる。他の職人の半分の所要時間。
17才で家を出て板金一筋で生きてきた。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅。楽しみは晩酌。結婚36年。3人の子。
ものづくりのほかに大事な仕事がある。
中堅職人。坪島敬志35歳。
設計どおりに仕上げた部品が、うまく組みあがらない。
手違いで切り出した部品の型が間違っていた。
通常なら部品の切り出しからやり直しだが、国村は今の部品を使って形を整え
対応するように坪島に言った。町工場で働く以上どんな困難でも柔軟に対処できるようになってほしい。
カーブが型と合わないようです。縮めたり、広げたりする機械に板金を差し込んで形を修正しています。
一度国村に見てもらったがまだ精度が足りないといわれた。
「自分でつかんだ技術は逃げない」
相当参っている風の坪島さん。試行錯誤を繰り返し、その日の最後にまた国村さんにチェックを。
そうして見てみたら、カーブがぴたりとはまってました。「やったじゃん!」
見ていても金属がカーブをつけるというのがよくわからないけれどほんの少しのズレが差になって
誤差がでてきて難しいのですねえ。こういうところが技術ということなんですね!
彼も今日はゆっくり寝ねられるだろう・・と笑いながら去っていく国村さん。
スタジオin
新幹線の先頭車両が手作業だとは知らなかったが何故かと聞く茂木さん。
新幹線そのものが数が少ない。頭は先頭と最後尾の2両だけ。少量をオーダーメイドで作るには
打ち出し板金が向いているということ。
叩く品物によってハンマーも違ってくる。フラットなものはフラットなハンマー。
型が深ければ円形のハンマー。
円形の平アルミをお皿みたいにする実演をしてくれました。
叩いているうちに少しずつそりあがってきました。微妙に回しながら本当にお皿になっています。
アルミの板と台が接している一点を打つ。
茂木さんも試しています。
板にやみくもに打ってるだけで3点ガピタリと合う所を打たないと変な音がしてうまくいかない様子。
腕で打つのではなくて頭で打っている。上手くいくことを頭にイメージしながら打つ。
6人兄弟5番目。職業訓練校で板金の技術を身につけた。
17歳で下松市の鉄工所に勤めた。
最初の仕事は貨物列車のタンクカバーの叩き。
1年後、独立した先輩から引き抜き。列車の先頭車両を手がけててんてこ舞いだった。
迷わず飛び込んだ。
4年ほどで雲行きが変わった。鉄道の仕事は波があった。
大きな仕事の後は、仕事が減る。魚の行商用のガラスケース、コンクリートを流し込む型枠。
食いつなぐために何でも作った。
そして列車の仕事がくるとどんなに難しくても必死に取り組んだ。困難なものも手立てを見つけて完成
10年経ったあとに大きな仕事がきた。
超高速リニアモーターカー。車体の外張り。途方もなく難しい仕事。素材は超ジュラルミン。
反発力が強いため、ハンマーで叩いてもいつもの曲線が得られない。しかも力の加減で傷つく。
納期がせまっていた。頭を抱えていたが意地があった。
「できないとは言わない」
思うような曲線ができない。国村は試しに板の中心を軽く、周辺を強く叩いてみた。
するとこれまでできなかった曲線が生まれ始めた。3日がかりで美しいカーブを持つ部品を作った。
そのリニアモーターカーは時速517キロのスピードで走り、世界記録を塗り替えた。
歯を食いしばれば道は開ける。できないとは言わない。
再び茂木さんと。
超ジュラルミンが思うように曲がらなかったときの気持ちはどんなでしたか?
あの時はくたびれました・・。3日でやっと作り上げたけれど辞めようと何度も思った。
でもウチができなければリニアもできない責任も重大だった。
デキルできないではなくてつくりあげなければならなかった。
出来上がってやれやれほっとしたという。
板金の技術は奥が深いと思った。
職人として一流になるために必要なものは何?(住吉さん。いい質問!
「辛抱」だと言う国村さん。
どういうことですか?
辛抱して同じ仕事を長く続ける。仕事はどんなものも同じ。一つの仕事を長く続け極める。
10年ぶりに新人が入ってきた。
向山祐二 (21歳
半年、この基本を学んできた。飲み込みガ早く光るものがあると国村は見ている。
本気でやってくれるならあの子はけっこう早くできるかもしれないと。
弁当も自分で作ってくるという・・すごいです!!
これまで打ち込める仕事が見つからず転職を繰り返した来た人。
「今日から打ち出しの練習」新人にさせるのは異例のことだそうです。
単純に打ってるようで勘が良いらしく芯を捕らえることができたようです。
円形の板を叩かせ、皿のように盛り上げるアレもやっています。
一つ終わるとまた一つ。重さ1キロのハンマーを打つのも楽ではない仕事。数枚作った。
10時間以上ハンマーを打ち続けた。手がしびれたといっています。
次の日、向山が会社を休んだ。
向山が打った円版をなぞるとうまい具合に仕上がっている。センスがあると思った。
今の時代、ハンマーを振り続けてくれるかどうかが一番の心配。
国村も駆け出しの頃はやめようと何度も思った。でも思いとどまった。
一つのモノを完成させた喜びが何よりも大きかった。
どうやったら向山に仕事の醍醐味を伝えられるのか。
翌日向山が出勤。
国村はアルミ合金を渡し、新幹線の天井に使われる部品を完成させるように言った。
新人に製品を任せるのは前代未聞。
2時間後、力を入れすぎたために大きく曲面が浮いていた。ハンマーで修正している国村さん。
もう一つの部品も任せた。大事な製品。一切手を出さず見ている。
膨らみすぎた部分を溶接の人に焼くように頼み、もう一度曲面にあわせるように指示した。
完成した向山の板に合格を出した。確かな手ごたえをつかんだようです。
これからも続けて行きたいと話していました。
翌日、先輩の仕事を熱心にみている向山の姿があった。
職人の道は長く険しい。
しかし技は磨けば応えてくれる。技は裏切らない。
「プロフェッショナルとは」
立ち止まらず、前に進むこと。
自分の技術をそこで止めないで磨いていくということ。
*******************
いつも乗っている新幹線の顔の部分のあの曲面がこういうハンマーの手作業でできてるとは
本当にびっくりでした。
型に流して作るのだと思っていたら違うのね。
大きな平面一面を曲面に少しずつ曲げていくというそのカーブの微妙さは
ハンマーで打つことで現れてくるんですね。
本当に目からうろことはこういうことでした。
面白かった~。
番組を見るまでは、板金と聞いてもぴんとこなかったけれど
本当に、技術の世界って奥が深くておもしろいと思いました。
地味な努力が必要ですがあの新人の向山さんが国村さんの思いを受け止めて
りっぱな職人に育ってくれることを祈っています。
次回は 宮崎駿 ~ポニョ密着300日~
瀬戸内海の町工場でハンマーをふるう国村次郎さん63歳。
「ハンマー一筋、新幹線を作る」
山口県下松市。新幹線の町。大小20あまりの工場がある。多いときは年間100両以上出荷される。
始業30分前に出勤。
工場は職人11人。国村は工場長として束ねる。
扱うのは列車の先頭車両。車体の外張り、窓枠、計器盤などの加工。
車両メーカーの技術者が毎週訪れてくる。
この日は新幹線のプロトタイプの打ち合わせ。新たなデザインが国村たちの技術でできるかどうか。
国村は高度な要求にも知恵を絞り、方策を編み出す。
「できないとは言わない」
得意なのはハンマーを使い金属から曲面を作る「打ち出し板金」
金属をハンマーで叩くと凹むが周囲が戻ろうとする力が生じる。そのとき少し面が上がる。
これを繰り返すことで金属を曲面へと仕上げる。
「治具」
作業は治具と呼ばれる実寸代の型をもとに行われる。
単純に見える打ち技の影に職人技がかくされている。狙ったところを正確に打つ。
左手と足を微妙に動かしながら。そして
「無駄に打たない」
どこにどのスピードで打てばいいか読みきる。他の職人の半分の所要時間。
17才で家を出て板金一筋で生きてきた。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅。楽しみは晩酌。結婚36年。3人の子。
ものづくりのほかに大事な仕事がある。
中堅職人。坪島敬志35歳。
設計どおりに仕上げた部品が、うまく組みあがらない。
手違いで切り出した部品の型が間違っていた。
通常なら部品の切り出しからやり直しだが、国村は今の部品を使って形を整え
対応するように坪島に言った。町工場で働く以上どんな困難でも柔軟に対処できるようになってほしい。
カーブが型と合わないようです。縮めたり、広げたりする機械に板金を差し込んで形を修正しています。
一度国村に見てもらったがまだ精度が足りないといわれた。
「自分でつかんだ技術は逃げない」
相当参っている風の坪島さん。試行錯誤を繰り返し、その日の最後にまた国村さんにチェックを。
そうして見てみたら、カーブがぴたりとはまってました。「やったじゃん!」
見ていても金属がカーブをつけるというのがよくわからないけれどほんの少しのズレが差になって
誤差がでてきて難しいのですねえ。こういうところが技術ということなんですね!
彼も今日はゆっくり寝ねられるだろう・・と笑いながら去っていく国村さん。
スタジオin
新幹線の先頭車両が手作業だとは知らなかったが何故かと聞く茂木さん。
新幹線そのものが数が少ない。頭は先頭と最後尾の2両だけ。少量をオーダーメイドで作るには
打ち出し板金が向いているということ。
叩く品物によってハンマーも違ってくる。フラットなものはフラットなハンマー。
型が深ければ円形のハンマー。
円形の平アルミをお皿みたいにする実演をしてくれました。
叩いているうちに少しずつそりあがってきました。微妙に回しながら本当にお皿になっています。
アルミの板と台が接している一点を打つ。
茂木さんも試しています。
板にやみくもに打ってるだけで3点ガピタリと合う所を打たないと変な音がしてうまくいかない様子。
腕で打つのではなくて頭で打っている。上手くいくことを頭にイメージしながら打つ。
6人兄弟5番目。職業訓練校で板金の技術を身につけた。
17歳で下松市の鉄工所に勤めた。
最初の仕事は貨物列車のタンクカバーの叩き。
1年後、独立した先輩から引き抜き。列車の先頭車両を手がけててんてこ舞いだった。
迷わず飛び込んだ。
4年ほどで雲行きが変わった。鉄道の仕事は波があった。
大きな仕事の後は、仕事が減る。魚の行商用のガラスケース、コンクリートを流し込む型枠。
食いつなぐために何でも作った。
そして列車の仕事がくるとどんなに難しくても必死に取り組んだ。困難なものも手立てを見つけて完成
10年経ったあとに大きな仕事がきた。
超高速リニアモーターカー。車体の外張り。途方もなく難しい仕事。素材は超ジュラルミン。
反発力が強いため、ハンマーで叩いてもいつもの曲線が得られない。しかも力の加減で傷つく。
納期がせまっていた。頭を抱えていたが意地があった。
「できないとは言わない」
思うような曲線ができない。国村は試しに板の中心を軽く、周辺を強く叩いてみた。
するとこれまでできなかった曲線が生まれ始めた。3日がかりで美しいカーブを持つ部品を作った。
そのリニアモーターカーは時速517キロのスピードで走り、世界記録を塗り替えた。
歯を食いしばれば道は開ける。できないとは言わない。
再び茂木さんと。
超ジュラルミンが思うように曲がらなかったときの気持ちはどんなでしたか?
あの時はくたびれました・・。3日でやっと作り上げたけれど辞めようと何度も思った。
でもウチができなければリニアもできない責任も重大だった。
デキルできないではなくてつくりあげなければならなかった。
出来上がってやれやれほっとしたという。
板金の技術は奥が深いと思った。
職人として一流になるために必要なものは何?(住吉さん。いい質問!
「辛抱」だと言う国村さん。
どういうことですか?
辛抱して同じ仕事を長く続ける。仕事はどんなものも同じ。一つの仕事を長く続け極める。
10年ぶりに新人が入ってきた。
向山祐二 (21歳
半年、この基本を学んできた。飲み込みガ早く光るものがあると国村は見ている。
本気でやってくれるならあの子はけっこう早くできるかもしれないと。
弁当も自分で作ってくるという・・すごいです!!
これまで打ち込める仕事が見つからず転職を繰り返した来た人。
「今日から打ち出しの練習」新人にさせるのは異例のことだそうです。
単純に打ってるようで勘が良いらしく芯を捕らえることができたようです。
円形の板を叩かせ、皿のように盛り上げるアレもやっています。
一つ終わるとまた一つ。重さ1キロのハンマーを打つのも楽ではない仕事。数枚作った。
10時間以上ハンマーを打ち続けた。手がしびれたといっています。
次の日、向山が会社を休んだ。
向山が打った円版をなぞるとうまい具合に仕上がっている。センスがあると思った。
今の時代、ハンマーを振り続けてくれるかどうかが一番の心配。
国村も駆け出しの頃はやめようと何度も思った。でも思いとどまった。
一つのモノを完成させた喜びが何よりも大きかった。
どうやったら向山に仕事の醍醐味を伝えられるのか。
翌日向山が出勤。
国村はアルミ合金を渡し、新幹線の天井に使われる部品を完成させるように言った。
新人に製品を任せるのは前代未聞。
2時間後、力を入れすぎたために大きく曲面が浮いていた。ハンマーで修正している国村さん。
もう一つの部品も任せた。大事な製品。一切手を出さず見ている。
膨らみすぎた部分を溶接の人に焼くように頼み、もう一度曲面にあわせるように指示した。
完成した向山の板に合格を出した。確かな手ごたえをつかんだようです。
これからも続けて行きたいと話していました。
翌日、先輩の仕事を熱心にみている向山の姿があった。
職人の道は長く険しい。
しかし技は磨けば応えてくれる。技は裏切らない。
「プロフェッショナルとは」
立ち止まらず、前に進むこと。
自分の技術をそこで止めないで磨いていくということ。
*******************
いつも乗っている新幹線の顔の部分のあの曲面がこういうハンマーの手作業でできてるとは
本当にびっくりでした。
型に流して作るのだと思っていたら違うのね。
大きな平面一面を曲面に少しずつ曲げていくというそのカーブの微妙さは
ハンマーで打つことで現れてくるんですね。
本当に目からうろことはこういうことでした。
面白かった~。
番組を見るまでは、板金と聞いてもぴんとこなかったけれど
本当に、技術の世界って奥が深くておもしろいと思いました。
地味な努力が必要ですがあの新人の向山さんが国村さんの思いを受け止めて
りっぱな職人に育ってくれることを祈っています。
次回は 宮崎駿 ~ポニョ密着300日~
07/16/2008 NHKプロフェッショナル (棋士 森内俊之VS羽生善治)
今週は名人戦の模様を2ヶ月に渡って追ってくれたということで1時間の番組になっています。
宿命のライバル対決
4/8 将棋界の名人のタイトルをかけて勝負が始まりました。
最初に登場したのが4期連続名人の座を守る森内俊之(37)。
そして、挑戦者の羽生善治(37)が登場。
二人は同い年で同期。森内は4年前羽生から名人の座をうばった。
羽生は奪還に燃えています。
阿部隆八段や、鈴木大介八段もコメントを寄せています。本気の羽生をみたい。最強の二人だと。
振り駒により森内の先手。おしぼりで手をしめらせています。じっと目をつぶる羽生。
二人は子供の頃から戦い続けてきた。宿命のライバルといわれている。
150人のプロ棋士は5段階のピラミッド型になっていてトップの10人が一年がかりで総当たり戦を
行い、1位になった人がその頂点にいる名人に挑戦する権利があるというもの。これが名人戦。
森内は名人になって5期目で、永世名人の資格を持った。
この称号は名人戦が実力制になって70年の歴史のなかでは五人しかもっていない。
羽生は先に4期名人を持っていたがあと1期が森内に阻まれ遠い道のりとなっていた。
第一局。名人戦はもっとも過酷なタイトル戦。2日間にわたって闘いが繰り広げられる。
持久力精神力が問われる戦い。
主導権を握った森内。だが44手目で羽生が一手損する方法を選び、まもなく森内の攻めを封じた。
天才と呼ばれる羽生の強さがここにある。
「常識破りのひらめき。」
今ある定石を絶対だと思わないほうがいい。全部忘れたほうがいいものが浮かぶことがある。
森内はじっと耐え続ける。優勢のはずの羽生が落ち着きを失い始めた。
58手目。勝負を急いだ羽生。見ている人たちは羽生の手を雑だと思った。
羽生をこのようにさせた森内の重厚さが見事だと。
「重厚な受け」
森内は読みの速さや瞬時の判断力は羽生に比べて遅い。しかしどっしりと相手の攻めを受けとめ
緻密な読みをめぐらしてゆさぶる。
この重厚な将棋が羽生を狂わせた。一気に攻めに転じた森内。
19時間。羽生が「負けました」といった。一局目は森内の勝利。
合間にバックギャモンをしていた森内。気分転換。この重厚さはライバル羽生の背中を追うことで生まれた。
小学校4年の時に二人は出会った。翌年、揃ってプロ棋士の養成所に入った
当時から未来を嘱望されていた森内。その前には常に羽生がいた。
羽生は中学3年でプロになった。異例の速さ。
一年半後、森内もその後を追った。しかし差は開く一方。
羽生は次々とタイトルを手にし、25歳で前人未踏の7冠を手にする。
そのころ森内はタイトル戦すら挑戦することができなかった。
劣等感があり嫌な自分になっていくのが辛かった時期。
定石の研究に没頭してもなかなか勝てない。次第に開き直り、自分の将棋を追及してみた。
吹っ切れたとき、森内の将棋が変わった。持ち味の重厚さに加えて思い切った手を指すようになった。
31歳で初めての名人戦を獲得。32歳で竜王位。羽生に4連勝でタイトルを奪った。
先に永世名人を得たのは遅咲きの森内だった。
4/21大阪 第二局
39手、定石とは違う手をさす森内。30分考えた羽生は型破りな手をだした。400年の歴史のなかで
一度も前例がない手。データに裏付け得られた戦術ではなく一つ間違えるとあっという間に勝負がつく。
二人はそこで真の実力勝負をする。
「二人で新たな地平へ」
知らない局面こそその人の実力を問われる将棋士にとって本当の実力と思ってます。(森内
予期せぬことにどれだけ出会えるかが面白い。お互い力を振り絞って。(羽生
対局中に、監視をしている二人が寝てしまいいびきをかいてました・・拭き出す二人です・・・。
外で見ている将棋士たちもこの勝負は難しいといってます。
17時間が過ぎ、羽生の攻めの構想が勝負の差を開いていった。
森内が「負けました」と言いました。一勝一負。
「スタジオin」
先に森内が登場。二人一緒というわけにはいかないのね。勝負士ですから!
2日間の勝負が大変だという茂木さん。
ずっと緊張したままだと最後までもたないから緩急をつけるという森内。
集中力が高いのかと問われると音に弱いので集中力は弱いほうだと笑う森内。
第二局は定石がなかったということでどんな状態だったかと聞く住吉さん。いい質問。
知識がない分、まっさらな気持ちで考えられるしそれが心地いい。自分が気づかないいい手だと思った。
羽生さんと勝負するとこういうことがあって、困ってるけれど感心する喜びがある。
初めて会ったのが小学4年。自分がアマチュア初段で羽生が4段。指してみたら偉い強くて
体が小さいのにすごいと思った。苦しい勝負だったことを覚えていた。
二人の対戦成績をみていると始めのことは羽生が優勢で最近は森内がおいあげている。
負けると悔しかったという。お互い負けず嫌いだけど羽生さんの方がその負けず嫌いは大きいと。
羽生さんの七冠の時の強さは?
神がかりがあった。心の中まで読まれてるような感じで今までになかった負け方をした。
羽生には劣等感があったといっていたが。
子供の頃から将棋にエネルギーを注いでそれで勝てないとなると他の仕事もできないし
自分がダメ人間と思う時期があった。
将棋から離れて他のことをしていたこともあった。酒やギャンブルに逃げたことも。
また戻ってくるきっかけになったのは何?
自分なりのポジションでしっかりやることだと思うようになった。年を重ねるにつれて人間だから
間違えてもしょうがないと思えたのが、思い切った手をさせるようになった契機となった。
無理と思っても可能性があると思えるようになっってきた。
次に羽生が登場。
今年の名人戦はどんな気持ちで臨まれたかと聞く茂木さん。
久しぶりに名人戦に挑戦できたし来年の保証がないからチャンスを活かしたいとおもった。
森内さんと初めて対戦したときの思い出は?
一局目は負かされて猛一局は勝った覚えがある。
体格のいい人だと思ったと笑う。
負けず嫌いは羽生さんだと森内さんがおっしゃってたというと笑いました。どうでしょう、わかりません。
お互い勝負士ですからと。
二人の勝負はデパートで指していたときから今にいたるまで核の部分では何も変わってないという。
羽生は名人戦に挑戦する権利を持つA級順位戦を一年かけて圧倒的な強さで勝ち抜いてきた。
その姿はここ数年の羽生の姿とは明らかに違っていた。
若くして頂点を極めた羽生。その桁違いの強さを支えていたのは天才的なひらめきと驚異的な勝負への
執着心。どんな劣勢でも最後の一手まで執念で粘りこみ逆転させた。
25歳で七冠を達成するとその将棋が変わってきた。
勝負にだけこだわる勝ち方に抵抗を感じ始め、30を過ぎてひらめきや記憶力も衰えてきた。
迷いと不安のなかで成績にも翳りが見え初めてきた。
そのころ台頭してきたのが同期の森内。
羽生は竜王、王将、名人と森内にタイトルを奪われてきた。
33歳の時に一冠まで落ち込んだ。
そこでみた一つの光景。若手棋士と対戦する還暦を過ぎたベテラン棋士たちの姿。
羽生ははっとなった。棋士にとって生涯をかけて自分の将棋をきわめればいい。
目の前の対極に全てを注ぎ込むこと。羽生の将棋が少しずつ変わっていった。
名人戦第三局目。
先手は森内。先手の勝率が7割以上と圧倒的に高い。これを崩したものが勝利。
最初に仕掛けたのは森内31手。棋士人生で初めて指した果敢の一手。
この手で有利になればと一手を出した。
森内の手に羽生は攻めの手を躊躇した。
勝負は森内のペースになった。
万策つきると皆が思った。開始から15時間。羽生投了かと空気が流れた。
羽生は30代になって投了が早くなった。
しかし、この日は粘った。誰もが勝負アリと思っていたところに羽生一人が諦めてなかった。
最善手を指し続ける羽生。それから二時間。
その執着心を凄いと思っていた森内。
羽生の粘りに決めきれない森内。持ち時間をとことん使い、余裕がなくなった、そして指した9八銀。
控え室でどよめきが起こった。意味をなさない痛恨の手だった。羽生の力の凄さを皆が思い知った時。
羽生はそのミスを見逃さない。頭を抱える森内。形勢は逆転。羽生の手が震え始めた。
羽生は30代になってぎりぎりで勝てる読みが見え始めると手が震えるようになった。
164手。森内の王を追い込んだ。「負けました」森内が言いました。森内、投了。
21時間に及ぶ激闘は歴史に残る大逆転。羽生が去っても立ち上がらずその場で考え込む森内。
スタジオの羽生
それにしてもすごい大逆転だったと茂木さんが言ってます。
あの時は控え室の声が聞こえたという。何か叫んでいる声があったと。大笑いしてます。
でもそれでよくなったわけではなくてその先も難しくてギアを切り替えていくのが大変だった。
1日目から不利だったので気持ちは萎えていたという。でも最後までベストを尽くそうと気力だけはあった。
30代になって投了が早くなったという。判断が早く見えてきたからだそうです。良い悪い互角が見える。
頑張ろうという気がなくなった。でも淡白になりすぎるのもいけないと思ってきた。
可能性があるのにいろんな手があるのに諦めるというのがよくない。30代に入って迷いの時期があった。
不安や心配がみえてきた。メンタルな部分は年を重ねると見えてくる。長老の知恵などがよぎった。
森内さん登場。
第三局目でミスを犯してしまいましたがどんな気持ちでしたか。
いくつか決め手があったのに逃がしていて、危ないという危機感をもってやっていたが平常心ではなかった。
力を使いすぎて気持ちが続かなくなった。終わった後もかなり落ち込んでおられたが・・・
そのあと飲みにいってひどい将棋だったと先輩に言われて気分が楽になった・・。
あの時の羽生さんの気迫が凄かった。それだけ勝ちたいというのが伝わってきた10代の羽生をみてい
る感じだった。自分はああいう将棋は指せない・・。
羽生さんにとってライバルの森内さんはどんな人?
自分のないものを色々提示してくれるという感じ。資質とか発想とか判断することとか。提示してくれる人。
そういう人がいると1+1は足し算じゃなくて掛け算とか自乗とかそういうもの。(羽生
森内さんにとって羽生さんとは?
倒したい相手でもあるし自分がここまでくることができた恩人でもある。
自分のなかで保守的になりがちな部分をこわして新しいものに挑戦するお手本になってます。
5/13 森内は痛恨の第三局からまだ将棋盤に向かえてなかった。
野球の打ちっぱなしで無心になる。
ミスをすることを怖れずに自分を信じていけるかどうか・・逃げるのではなく克服したい。
自分自身とむきあっていた。
5/30 名古屋 第四局
森内が後手。負ければ後がなくなる。
序盤、果敢な手を出してきた森内。14手2ニ飛車。未知の局面に誘い込む。
大胆だと控え室の将棋士たちが言っています。こういう指し方はしない人だと。
局面は混沌としてきた。
18時間半。羽生の手が震え始めた。あっというまに森内の王を追い込んだ。
「負けました」森内が言いました。1勝3敗。森内のあとがなくなった・・
第五局
絶対に負けられない森内。痛恨の三局と同じ戦法に出た。
20手。羽生が三局と違う手で返してきた。
森内はさらに違う手で返した。
「難局でこそ大胆に」
厳しい状況になるほど大胆にいきたいとおもっている。(森内
森内さんはぶれガ少ない。さすがだと思いました(羽生
1時間47分の延長。羽生の封じ手で終わった。
羽生の封じ手の開封。度肝を抜かれた。
「最強の手には最強の手」
羽生の渾身の一手にもひるまず森内はすさまじかった。
強気の攻めで羽生との差をひろげていった。
羽生が「負けました」と言いました。この日は森内の圧勝。
名人戦の合間に他の対局にも追われていた羽生。
第六局は山形天童。3勝2敗で王手をかけていたがそのほうが逆にプレッシャーだった。
平常心でいようと思うこと自体がもう平常心じゃない・・。(羽生
森内は報道陣の控え室をふらっと訪れた。
大量の機材をみて驚いていた。
その表情はふっきれていた。
第六局 最高の大舞台。
羽生の先手。ゆっくりと目を閉じた。
「玲瓏」羽生はこの言葉を思い浮かべるという。
後手の森内、羽生への劣等感を振り払い自分の将棋を追及してきた。
一つの境地「無心」こえrが森内の心境。
若い時は理詰め。今は自然にわきあがるものを大事に。
森内は常識破りの危険な手をさした。羽生の攻めを誘う大胆な手。
羽生の表情が変わった。素直に凄いと思った(羽生
一進一退の攻防。
森内が羽生の懐深く打った。羽生は渾身の一手で返した。
16時間。小さくうなずいた羽生。89手目 5三桂成
飛車を捨て最短で勝ちにいった。森内は目を閉じた。羽生、王手!
「負けました」森内が言いました。お辞儀をし、汗をぬぐう羽生。
終わってほっとしたという羽生。
全体的に押され気味で仕方なかったという森内。
翌朝、森内は始発で帰っていった。
名人となった羽生がフラッシュをあびる。
プロフェッショナルとは
高い専門技術はもちろん、今の自分に満足せず高めていく(森内
24時間365日、プロであり続けること(羽生
名人戦から3週間、羽生は勢いにのりさらに2つのタイトル戦に挑んでいた。
森内は無冠からの再スタート。全く新しくやり直しますと爽やかに笑っていた。
********************
父が将棋好きで職場の中で試合があると優勝してトロフィーを貰ってきたりと楽しそうでした。
日曜のお昼頃は教育テレビで研究してましたね。
私は教えてもらったけど全然できません。
でも今回は文句なしに面白かったです。
天才の羽生に遅咲きの森内。小学校から20年以上も戦い続けてきた。
頂上対決という二人。
有名な二人だけに対局の緊張感がたまらなかったです。
真の頭脳対決の凄さをみせてもらいました。
現在、名人は羽生さんがもってるのね。
ニュースになるくらい斬新な更なる一手をお待ちしています。
次回は板金職人 国村次郎さん(63)
4/8 将棋界の名人のタイトルをかけて勝負が始まりました。
最初に登場したのが4期連続名人の座を守る森内俊之(37)。
そして、挑戦者の羽生善治(37)が登場。
二人は同い年で同期。森内は4年前羽生から名人の座をうばった。
羽生は奪還に燃えています。
阿部隆八段や、鈴木大介八段もコメントを寄せています。本気の羽生をみたい。最強の二人だと。
振り駒により森内の先手。おしぼりで手をしめらせています。じっと目をつぶる羽生。
二人は子供の頃から戦い続けてきた。宿命のライバルといわれている。
150人のプロ棋士は5段階のピラミッド型になっていてトップの10人が一年がかりで総当たり戦を
行い、1位になった人がその頂点にいる名人に挑戦する権利があるというもの。これが名人戦。
森内は名人になって5期目で、永世名人の資格を持った。
この称号は名人戦が実力制になって70年の歴史のなかでは五人しかもっていない。
羽生は先に4期名人を持っていたがあと1期が森内に阻まれ遠い道のりとなっていた。
第一局。名人戦はもっとも過酷なタイトル戦。2日間にわたって闘いが繰り広げられる。
持久力精神力が問われる戦い。
主導権を握った森内。だが44手目で羽生が一手損する方法を選び、まもなく森内の攻めを封じた。
天才と呼ばれる羽生の強さがここにある。
「常識破りのひらめき。」
今ある定石を絶対だと思わないほうがいい。全部忘れたほうがいいものが浮かぶことがある。
森内はじっと耐え続ける。優勢のはずの羽生が落ち着きを失い始めた。
58手目。勝負を急いだ羽生。見ている人たちは羽生の手を雑だと思った。
羽生をこのようにさせた森内の重厚さが見事だと。
「重厚な受け」
森内は読みの速さや瞬時の判断力は羽生に比べて遅い。しかしどっしりと相手の攻めを受けとめ
緻密な読みをめぐらしてゆさぶる。
この重厚な将棋が羽生を狂わせた。一気に攻めに転じた森内。
19時間。羽生が「負けました」といった。一局目は森内の勝利。
合間にバックギャモンをしていた森内。気分転換。この重厚さはライバル羽生の背中を追うことで生まれた。
小学校4年の時に二人は出会った。翌年、揃ってプロ棋士の養成所に入った
当時から未来を嘱望されていた森内。その前には常に羽生がいた。
羽生は中学3年でプロになった。異例の速さ。
一年半後、森内もその後を追った。しかし差は開く一方。
羽生は次々とタイトルを手にし、25歳で前人未踏の7冠を手にする。
そのころ森内はタイトル戦すら挑戦することができなかった。
劣等感があり嫌な自分になっていくのが辛かった時期。
定石の研究に没頭してもなかなか勝てない。次第に開き直り、自分の将棋を追及してみた。
吹っ切れたとき、森内の将棋が変わった。持ち味の重厚さに加えて思い切った手を指すようになった。
31歳で初めての名人戦を獲得。32歳で竜王位。羽生に4連勝でタイトルを奪った。
先に永世名人を得たのは遅咲きの森内だった。
4/21大阪 第二局
39手、定石とは違う手をさす森内。30分考えた羽生は型破りな手をだした。400年の歴史のなかで
一度も前例がない手。データに裏付け得られた戦術ではなく一つ間違えるとあっという間に勝負がつく。
二人はそこで真の実力勝負をする。
「二人で新たな地平へ」
知らない局面こそその人の実力を問われる将棋士にとって本当の実力と思ってます。(森内
予期せぬことにどれだけ出会えるかが面白い。お互い力を振り絞って。(羽生
対局中に、監視をしている二人が寝てしまいいびきをかいてました・・拭き出す二人です・・・。
外で見ている将棋士たちもこの勝負は難しいといってます。
17時間が過ぎ、羽生の攻めの構想が勝負の差を開いていった。
森内が「負けました」と言いました。一勝一負。
「スタジオin」
先に森内が登場。二人一緒というわけにはいかないのね。勝負士ですから!
2日間の勝負が大変だという茂木さん。
ずっと緊張したままだと最後までもたないから緩急をつけるという森内。
集中力が高いのかと問われると音に弱いので集中力は弱いほうだと笑う森内。
第二局は定石がなかったということでどんな状態だったかと聞く住吉さん。いい質問。
知識がない分、まっさらな気持ちで考えられるしそれが心地いい。自分が気づかないいい手だと思った。
羽生さんと勝負するとこういうことがあって、困ってるけれど感心する喜びがある。
初めて会ったのが小学4年。自分がアマチュア初段で羽生が4段。指してみたら偉い強くて
体が小さいのにすごいと思った。苦しい勝負だったことを覚えていた。
二人の対戦成績をみていると始めのことは羽生が優勢で最近は森内がおいあげている。
負けると悔しかったという。お互い負けず嫌いだけど羽生さんの方がその負けず嫌いは大きいと。
羽生さんの七冠の時の強さは?
神がかりがあった。心の中まで読まれてるような感じで今までになかった負け方をした。
羽生には劣等感があったといっていたが。
子供の頃から将棋にエネルギーを注いでそれで勝てないとなると他の仕事もできないし
自分がダメ人間と思う時期があった。
将棋から離れて他のことをしていたこともあった。酒やギャンブルに逃げたことも。
また戻ってくるきっかけになったのは何?
自分なりのポジションでしっかりやることだと思うようになった。年を重ねるにつれて人間だから
間違えてもしょうがないと思えたのが、思い切った手をさせるようになった契機となった。
無理と思っても可能性があると思えるようになっってきた。
次に羽生が登場。
今年の名人戦はどんな気持ちで臨まれたかと聞く茂木さん。
久しぶりに名人戦に挑戦できたし来年の保証がないからチャンスを活かしたいとおもった。
森内さんと初めて対戦したときの思い出は?
一局目は負かされて猛一局は勝った覚えがある。
体格のいい人だと思ったと笑う。
負けず嫌いは羽生さんだと森内さんがおっしゃってたというと笑いました。どうでしょう、わかりません。
お互い勝負士ですからと。
二人の勝負はデパートで指していたときから今にいたるまで核の部分では何も変わってないという。
羽生は名人戦に挑戦する権利を持つA級順位戦を一年かけて圧倒的な強さで勝ち抜いてきた。
その姿はここ数年の羽生の姿とは明らかに違っていた。
若くして頂点を極めた羽生。その桁違いの強さを支えていたのは天才的なひらめきと驚異的な勝負への
執着心。どんな劣勢でも最後の一手まで執念で粘りこみ逆転させた。
25歳で七冠を達成するとその将棋が変わってきた。
勝負にだけこだわる勝ち方に抵抗を感じ始め、30を過ぎてひらめきや記憶力も衰えてきた。
迷いと不安のなかで成績にも翳りが見え初めてきた。
そのころ台頭してきたのが同期の森内。
羽生は竜王、王将、名人と森内にタイトルを奪われてきた。
33歳の時に一冠まで落ち込んだ。
そこでみた一つの光景。若手棋士と対戦する還暦を過ぎたベテラン棋士たちの姿。
羽生ははっとなった。棋士にとって生涯をかけて自分の将棋をきわめればいい。
目の前の対極に全てを注ぎ込むこと。羽生の将棋が少しずつ変わっていった。
名人戦第三局目。
先手は森内。先手の勝率が7割以上と圧倒的に高い。これを崩したものが勝利。
最初に仕掛けたのは森内31手。棋士人生で初めて指した果敢の一手。
この手で有利になればと一手を出した。
森内の手に羽生は攻めの手を躊躇した。
勝負は森内のペースになった。
万策つきると皆が思った。開始から15時間。羽生投了かと空気が流れた。
羽生は30代になって投了が早くなった。
しかし、この日は粘った。誰もが勝負アリと思っていたところに羽生一人が諦めてなかった。
最善手を指し続ける羽生。それから二時間。
その執着心を凄いと思っていた森内。
羽生の粘りに決めきれない森内。持ち時間をとことん使い、余裕がなくなった、そして指した9八銀。
控え室でどよめきが起こった。意味をなさない痛恨の手だった。羽生の力の凄さを皆が思い知った時。
羽生はそのミスを見逃さない。頭を抱える森内。形勢は逆転。羽生の手が震え始めた。
羽生は30代になってぎりぎりで勝てる読みが見え始めると手が震えるようになった。
164手。森内の王を追い込んだ。「負けました」森内が言いました。森内、投了。
21時間に及ぶ激闘は歴史に残る大逆転。羽生が去っても立ち上がらずその場で考え込む森内。
スタジオの羽生
それにしてもすごい大逆転だったと茂木さんが言ってます。
あの時は控え室の声が聞こえたという。何か叫んでいる声があったと。大笑いしてます。
でもそれでよくなったわけではなくてその先も難しくてギアを切り替えていくのが大変だった。
1日目から不利だったので気持ちは萎えていたという。でも最後までベストを尽くそうと気力だけはあった。
30代になって投了が早くなったという。判断が早く見えてきたからだそうです。良い悪い互角が見える。
頑張ろうという気がなくなった。でも淡白になりすぎるのもいけないと思ってきた。
可能性があるのにいろんな手があるのに諦めるというのがよくない。30代に入って迷いの時期があった。
不安や心配がみえてきた。メンタルな部分は年を重ねると見えてくる。長老の知恵などがよぎった。
森内さん登場。
第三局目でミスを犯してしまいましたがどんな気持ちでしたか。
いくつか決め手があったのに逃がしていて、危ないという危機感をもってやっていたが平常心ではなかった。
力を使いすぎて気持ちが続かなくなった。終わった後もかなり落ち込んでおられたが・・・
そのあと飲みにいってひどい将棋だったと先輩に言われて気分が楽になった・・。
あの時の羽生さんの気迫が凄かった。それだけ勝ちたいというのが伝わってきた10代の羽生をみてい
る感じだった。自分はああいう将棋は指せない・・。
羽生さんにとってライバルの森内さんはどんな人?
自分のないものを色々提示してくれるという感じ。資質とか発想とか判断することとか。提示してくれる人。
そういう人がいると1+1は足し算じゃなくて掛け算とか自乗とかそういうもの。(羽生
森内さんにとって羽生さんとは?
倒したい相手でもあるし自分がここまでくることができた恩人でもある。
自分のなかで保守的になりがちな部分をこわして新しいものに挑戦するお手本になってます。
5/13 森内は痛恨の第三局からまだ将棋盤に向かえてなかった。
野球の打ちっぱなしで無心になる。
ミスをすることを怖れずに自分を信じていけるかどうか・・逃げるのではなく克服したい。
自分自身とむきあっていた。
5/30 名古屋 第四局
森内が後手。負ければ後がなくなる。
序盤、果敢な手を出してきた森内。14手2ニ飛車。未知の局面に誘い込む。
大胆だと控え室の将棋士たちが言っています。こういう指し方はしない人だと。
局面は混沌としてきた。
18時間半。羽生の手が震え始めた。あっというまに森内の王を追い込んだ。
「負けました」森内が言いました。1勝3敗。森内のあとがなくなった・・
第五局
絶対に負けられない森内。痛恨の三局と同じ戦法に出た。
20手。羽生が三局と違う手で返してきた。
森内はさらに違う手で返した。
「難局でこそ大胆に」
厳しい状況になるほど大胆にいきたいとおもっている。(森内
森内さんはぶれガ少ない。さすがだと思いました(羽生
1時間47分の延長。羽生の封じ手で終わった。
羽生の封じ手の開封。度肝を抜かれた。
「最強の手には最強の手」
羽生の渾身の一手にもひるまず森内はすさまじかった。
強気の攻めで羽生との差をひろげていった。
羽生が「負けました」と言いました。この日は森内の圧勝。
名人戦の合間に他の対局にも追われていた羽生。
第六局は山形天童。3勝2敗で王手をかけていたがそのほうが逆にプレッシャーだった。
平常心でいようと思うこと自体がもう平常心じゃない・・。(羽生
森内は報道陣の控え室をふらっと訪れた。
大量の機材をみて驚いていた。
その表情はふっきれていた。
第六局 最高の大舞台。
羽生の先手。ゆっくりと目を閉じた。
「玲瓏」羽生はこの言葉を思い浮かべるという。
後手の森内、羽生への劣等感を振り払い自分の将棋を追及してきた。
一つの境地「無心」こえrが森内の心境。
若い時は理詰め。今は自然にわきあがるものを大事に。
森内は常識破りの危険な手をさした。羽生の攻めを誘う大胆な手。
羽生の表情が変わった。素直に凄いと思った(羽生
一進一退の攻防。
森内が羽生の懐深く打った。羽生は渾身の一手で返した。
16時間。小さくうなずいた羽生。89手目 5三桂成
飛車を捨て最短で勝ちにいった。森内は目を閉じた。羽生、王手!
「負けました」森内が言いました。お辞儀をし、汗をぬぐう羽生。
終わってほっとしたという羽生。
全体的に押され気味で仕方なかったという森内。
翌朝、森内は始発で帰っていった。
名人となった羽生がフラッシュをあびる。
プロフェッショナルとは
高い専門技術はもちろん、今の自分に満足せず高めていく(森内
24時間365日、プロであり続けること(羽生
名人戦から3週間、羽生は勢いにのりさらに2つのタイトル戦に挑んでいた。
森内は無冠からの再スタート。全く新しくやり直しますと爽やかに笑っていた。
********************
父が将棋好きで職場の中で試合があると優勝してトロフィーを貰ってきたりと楽しそうでした。
日曜のお昼頃は教育テレビで研究してましたね。
私は教えてもらったけど全然できません。
でも今回は文句なしに面白かったです。
天才の羽生に遅咲きの森内。小学校から20年以上も戦い続けてきた。
頂上対決という二人。
有名な二人だけに対局の緊張感がたまらなかったです。
真の頭脳対決の凄さをみせてもらいました。
現在、名人は羽生さんがもってるのね。
ニュースになるくらい斬新な更なる一手をお待ちしています。
次回は板金職人 国村次郎さん(63)
07/09/2008 NHKプロフェッショナル (プロ野球選手 宮本慎也)
ルーキーズを視聴中なので野球にもちょっとは興味がでてきました。
宮本慎也さんはヤクルトのプロ野球選手。そして北京五輪の代表選手のキャプテンでもあります。
「チームは背中と口で引っ張る。」
ナイトゲームに備えて昼前に家を出る宮本選手。ベンツですな。
野球ではシーズン中は「タコ」を食べないという。
北海道遠征のとき「1タコ2タコ3タコ」とタコを食べまくった二人が
翌日の試合で二人であわせて9タコした^^;
タコとはノーヒットのことを言うそうです。9タコって9回の出番で一回も塁に出なかったってこと?
それをみたらシーズン以外でもタコはたべなくなりそう。タコ焼きもダメだって(笑
神宮に着いたらまずマッサージをする。
宮本はプロ入り14年目の37歳。こつこつと実績を積み上げてきた燻し銀の選手。
ゴールデングラブ賞6回の堅実な守り。しぶといバッティング。送りバントの最多記録。
キャプテンとして引っ張っていく力も頭脳も持った選手である。
チームの動きを読み声をかける。相手チームの動きを察知してそれをチームに知らしめる。
時にはきついこともいいチーム選手に発奮してもらうという技もだす。
言われた選手は宮本先輩ならとついていくようです。人望もあるということ。
この宮本の流儀が
「背中と口でひっぱる」
自分自身の練習も厳しく肉体をぎりぎりまで追い込むという。
それだけではなく厳しい言葉を他の選手にもぶつける。
スキのあるプレー気を抜いた選手には怒鳴りつけることもいとわない。
同じチームで闘う選手だから。言う事は言うというのが信念。
高田監督も監督が言うよりも宮本選手が言ってくれるほうが選手も素直に聞いてくれると
絶大な信頼をよせています。
キャプテン宮本の力が試される試合があった。
開幕巨人戦。ヤクルトの3番とエースが巨人に移籍。力の差は歴然としていた。
しかし試合前「開幕3連勝する」とチームに宣言。
絶対に勝つという信念を見せた。選手達も宮本の言葉に気迫を見せてくれて3連勝。
試合後は店でくつろぎ乾杯。酒を飲めない宮本は話も野球のことばかり。
試合の話とか・・・でも穏やかさが違うといってます。
食事が終わりホテルに戻り、遅くなっても必ずバットを素振り。
恩師から言われた言葉を胸に野球人生を歩いてきた。
「二流の超一流になれ」
ホームラン40本打つタイプの選手ではなく脇役であがっていくということを早くから自覚していた。
脇でいながらもなくてはならない存在というポジション。
東京ドームでの試合。ヤクルトは終盤に逆転。宮本も安打を打ち勝った。
だが、自分がミスしたプレーを思い浮かなかった。
他の選手と目が会うと「ごめん」と言う。自分のミスから逃げないと決めていた。
宮本ぐらいの立場になると謝るというのは難しい。
しかしそれを素直に認めるから逆に若い選手達もついていこうという気になる。
試合後のマッサージを受けながらその試合を振り返る。
「スタジオin」
6月に安打1500本達成。おめでとうございます♪
ミスを謝っていたことが印象に残っていると茂木さんが言っています。
素直に反省してミスを認めることで次につながると言う宮本さん。失敗から逃げないことが大事だと。
国際試合でもキャプテンとしてリーダーシップを発揮している宮本さんに星野監督からもメッセージ。
海外の試合では普段は接していない選手達とプレーするから星野監督が「バカヤロー、コノヤロー」って
言いにくい面もあるけど宮本選手が先に言ってくれるという。
だから監督としても助かっていると笑っていました。
北京五輪の予選、フィリピン戦でサブローという選手がアウトになるタイミングなのに頭から走ってなかっ
たという時があり、本当に必死でやったのかとみなの前で怒鳴ったことがあった。
その翌日、サブロー選手はタイムリーヒットを出してくれた。
こいつはやってくれると信じて怒鳴ったけど、期待に応えてくれたという思いがあった。
サブロー選手としては宮本に怒鳴られてコンチクショーと発奮してくれたそれで十分だという話でした。
逆に落ち込んでる選手は?
首位打者のタイトルをもってた小笠原選手がヒットを出せなくて声をかけようかどうか迷った。
しかし別の場所で「自分は3番を打ちにきたのではなくオリンピックの代表を取りにきた」と言っていたと
聞き、声をかけずによかったと思った。言うタイミング、言うことがプラスになるかどうか気を使うという。
勝つと思われてる試合はプレッシャーのかたまり。でもプロの選手として幸せを感じる。
グラブ2つを持参。サード用とショート用。
大きくてしかも内側は真っ黒。ボールを受け止められやすいようにしている。
少しずつ改良して今の形になったそうです。
球界のキャプテンとも呼ばれる宮本選手は2年まえから選手会の会長も勤めている。
宮本選手の子供時代は負けず嫌い。野球を知りすぐに夢中になった。
高校はPL学園。そこには中日の立浪選手などがいた。
2年でベンチ入り、3年で選手。
しかし3年の試合で公立校に負け、プロからの声はかからなかった。
同志社大学に進学、社会人野球。俊足好打のショートとして頭角を現す。
24歳の時にドラフト2位でヤクルトに入団。
評価されたのは守備。
体が小さいのでリトルリーグと呼ばれた。屈辱。しかしプロで生き残っていくためには?
考えるきっかけにもなった。
そして野村監督との出会い。
毎日監督は宮本選手を叱った。それにしっかりとくらいついていった。
「二流の一流をめざせ」
素質の高い選手はいくらでもいるが考える野球を極めれば脇役として超一流になれる。
目指す方向がぴんときた。
守備や小技の練習。頭脳的プレイがチームに欠かせぬ選手となっていった。
もう一つの個性。スキのあるプレーを見るとすかさず意見した。
それがチームを引き締め、リーダーシップが注目されチームのキャプテンに抜擢。
アテネオリンピックの時日本代表のキャプテンになった。
その後のワールドベースボール、北京五輪予選とキャプテンとして活躍。
再び茂木さんと。
試合中のまさかの盗塁に声も出なかったとき、監督から叱責された。
ランナーをケアしないといけないと。今でもショックを思い出されるくらいにかなりな怒鳴られ方だった。
その教育の成果で今があるという苦笑いをしています。
野村監督の野球の語録のノート。びっしりと記録をとっています。
ボールカウントの性質と心理、投手側、積極タイプか、消極タイプか・・打者側・・
文字がすっきりときれいで頭の良さそうなところが垣間見えます。
哲学っぽいことも書いています。
野球で生き残るためには・・
守備を認められ、苦労しつつ打撃を評価されてきたというステップがありチームを率いる点では
つながるものがあるかどうかと聞いていますが。
宮本さんは考えながらやってきたことは関係あると言ってます。
この人なら付いて行こうと思わせる要素は?
背中と口だと笑う宮本さん。
今、頑張っているエンジンは?
野球が好きだと言うそれだけ。野球というのは失敗が多いし、その失敗をチームでカバーできる
数少ないスポーツ。だから魅せられているという。
ヤクルトは若手主体のチーム。ここ1~2年で1軍になった選手が多い。
捕手の福川。名捕手古田の陰にいて目立たなかったがここで注目している。
福川には「1球の恐さ」を知ってほしいと厳しくいうことがある。
村中と福川のバッテリー。4回目で和田にホームランを許してしまった。
実は3週間前の中日戦も同じことがあった。
そのときの教訓が生かされてないと厳しい言葉を言った。出てきた福川は涙ぐんでいたという。
福川は24歳で入団。31歳の今、つきぬけて欲しいと思っている。
次の試合も中日戦で、負け、勝率5割を切った。
宮本は選手を集め、もっと頭を使って野球をやろう。多くの時間を野球に費やそう。と言った。
宮本は全身全霊を野球にかけてプロのなかを生き抜いてきた。
起きたときから野球のことを考えている。
福川も努力しているがそれを超える何かがないと生き抜いていけない。
遠征から戻った福川はノートを書き始めていた。相手チームの詳細なデータを残している。
宮本が福川に送ったメール
「お前の出す指に皆の生活がかかっている。
責任持ってやらないかん。」
翌日の巨人戦。9回までノーヒットに抑えた。ところがヒットを許すと突然崩れた。
5点を奪われ敗れた。
試合後、宮本は福川に厳しい言葉をぶつけた。
キャプテン宮本は背中と口でチームをひっぱる。若いチームを強くするために。
プロフェッショナルとは
努力するのはプロとして当たり前。それ以上するのが本当のプロ。
みんなのやってない努力をするのがプロフェッショナル。
2点リードで迎えた8回。バッターは4番ウッズ。
福川はコースを散らし最後は三振に切ってとった。
宮本は初めて「ナイスリード」と福川を褒めた。
************
今回は野球のお話でしたし、書こうかどうか迷ったんですけど
最後の最後に福川捕手を褒めることができてほっとしました。
きっとこの褒めるタイミングを待っていたんでしょうねえ・・
このエピを書けたからここまで書いてきて良かった~と心から思いました^^
試合運びの妙は捕手が握っているんですね。
皆の生活がかかってるといわれたらプレッシャーですが
その采配は凄くやりがいのあるものだと思います。
ヤクルトの選手についても知りませんでしたけど
今度新聞にヤクルトの試合ガ載っていたらちょっと見てみようかな。
穏やかそうな宮本さんが選手を叱咤しながら引っ張っていき、
さらにご自身も練習を厳しく、そして実績も残しているというリーダー性がすばらしかった。
皆がついていきたいと思う人というのは顔にも好かれる相が出ていますよね。
そしてそういう雰囲気が確かにありました。
次回は、 名人戦 森内俊之VS羽生善治
「チームは背中と口で引っ張る。」
ナイトゲームに備えて昼前に家を出る宮本選手。ベンツですな。
野球ではシーズン中は「タコ」を食べないという。
北海道遠征のとき「1タコ2タコ3タコ」とタコを食べまくった二人が
翌日の試合で二人であわせて9タコした^^;
タコとはノーヒットのことを言うそうです。9タコって9回の出番で一回も塁に出なかったってこと?
それをみたらシーズン以外でもタコはたべなくなりそう。タコ焼きもダメだって(笑
神宮に着いたらまずマッサージをする。
宮本はプロ入り14年目の37歳。こつこつと実績を積み上げてきた燻し銀の選手。
ゴールデングラブ賞6回の堅実な守り。しぶといバッティング。送りバントの最多記録。
キャプテンとして引っ張っていく力も頭脳も持った選手である。
チームの動きを読み声をかける。相手チームの動きを察知してそれをチームに知らしめる。
時にはきついこともいいチーム選手に発奮してもらうという技もだす。
言われた選手は宮本先輩ならとついていくようです。人望もあるということ。
この宮本の流儀が
「背中と口でひっぱる」
自分自身の練習も厳しく肉体をぎりぎりまで追い込むという。
それだけではなく厳しい言葉を他の選手にもぶつける。
スキのあるプレー気を抜いた選手には怒鳴りつけることもいとわない。
同じチームで闘う選手だから。言う事は言うというのが信念。
高田監督も監督が言うよりも宮本選手が言ってくれるほうが選手も素直に聞いてくれると
絶大な信頼をよせています。
キャプテン宮本の力が試される試合があった。
開幕巨人戦。ヤクルトの3番とエースが巨人に移籍。力の差は歴然としていた。
しかし試合前「開幕3連勝する」とチームに宣言。
絶対に勝つという信念を見せた。選手達も宮本の言葉に気迫を見せてくれて3連勝。
試合後は店でくつろぎ乾杯。酒を飲めない宮本は話も野球のことばかり。
試合の話とか・・・でも穏やかさが違うといってます。
食事が終わりホテルに戻り、遅くなっても必ずバットを素振り。
恩師から言われた言葉を胸に野球人生を歩いてきた。
「二流の超一流になれ」
ホームラン40本打つタイプの選手ではなく脇役であがっていくということを早くから自覚していた。
脇でいながらもなくてはならない存在というポジション。
東京ドームでの試合。ヤクルトは終盤に逆転。宮本も安打を打ち勝った。
だが、自分がミスしたプレーを思い浮かなかった。
他の選手と目が会うと「ごめん」と言う。自分のミスから逃げないと決めていた。
宮本ぐらいの立場になると謝るというのは難しい。
しかしそれを素直に認めるから逆に若い選手達もついていこうという気になる。
試合後のマッサージを受けながらその試合を振り返る。
「スタジオin」
6月に安打1500本達成。おめでとうございます♪
ミスを謝っていたことが印象に残っていると茂木さんが言っています。
素直に反省してミスを認めることで次につながると言う宮本さん。失敗から逃げないことが大事だと。
国際試合でもキャプテンとしてリーダーシップを発揮している宮本さんに星野監督からもメッセージ。
海外の試合では普段は接していない選手達とプレーするから星野監督が「バカヤロー、コノヤロー」って
言いにくい面もあるけど宮本選手が先に言ってくれるという。
だから監督としても助かっていると笑っていました。
北京五輪の予選、フィリピン戦でサブローという選手がアウトになるタイミングなのに頭から走ってなかっ
たという時があり、本当に必死でやったのかとみなの前で怒鳴ったことがあった。
その翌日、サブロー選手はタイムリーヒットを出してくれた。
こいつはやってくれると信じて怒鳴ったけど、期待に応えてくれたという思いがあった。
サブロー選手としては宮本に怒鳴られてコンチクショーと発奮してくれたそれで十分だという話でした。
逆に落ち込んでる選手は?
首位打者のタイトルをもってた小笠原選手がヒットを出せなくて声をかけようかどうか迷った。
しかし別の場所で「自分は3番を打ちにきたのではなくオリンピックの代表を取りにきた」と言っていたと
聞き、声をかけずによかったと思った。言うタイミング、言うことがプラスになるかどうか気を使うという。
勝つと思われてる試合はプレッシャーのかたまり。でもプロの選手として幸せを感じる。
グラブ2つを持参。サード用とショート用。
大きくてしかも内側は真っ黒。ボールを受け止められやすいようにしている。
少しずつ改良して今の形になったそうです。
球界のキャプテンとも呼ばれる宮本選手は2年まえから選手会の会長も勤めている。
宮本選手の子供時代は負けず嫌い。野球を知りすぐに夢中になった。
高校はPL学園。そこには中日の立浪選手などがいた。
2年でベンチ入り、3年で選手。
しかし3年の試合で公立校に負け、プロからの声はかからなかった。
同志社大学に進学、社会人野球。俊足好打のショートとして頭角を現す。
24歳の時にドラフト2位でヤクルトに入団。
評価されたのは守備。
体が小さいのでリトルリーグと呼ばれた。屈辱。しかしプロで生き残っていくためには?
考えるきっかけにもなった。
そして野村監督との出会い。
毎日監督は宮本選手を叱った。それにしっかりとくらいついていった。
「二流の一流をめざせ」
素質の高い選手はいくらでもいるが考える野球を極めれば脇役として超一流になれる。
目指す方向がぴんときた。
守備や小技の練習。頭脳的プレイがチームに欠かせぬ選手となっていった。
もう一つの個性。スキのあるプレーを見るとすかさず意見した。
それがチームを引き締め、リーダーシップが注目されチームのキャプテンに抜擢。
アテネオリンピックの時日本代表のキャプテンになった。
その後のワールドベースボール、北京五輪予選とキャプテンとして活躍。
再び茂木さんと。
試合中のまさかの盗塁に声も出なかったとき、監督から叱責された。
ランナーをケアしないといけないと。今でもショックを思い出されるくらいにかなりな怒鳴られ方だった。
その教育の成果で今があるという苦笑いをしています。
野村監督の野球の語録のノート。びっしりと記録をとっています。
ボールカウントの性質と心理、投手側、積極タイプか、消極タイプか・・打者側・・
文字がすっきりときれいで頭の良さそうなところが垣間見えます。
哲学っぽいことも書いています。
野球で生き残るためには・・
守備を認められ、苦労しつつ打撃を評価されてきたというステップがありチームを率いる点では
つながるものがあるかどうかと聞いていますが。
宮本さんは考えながらやってきたことは関係あると言ってます。
この人なら付いて行こうと思わせる要素は?
背中と口だと笑う宮本さん。
今、頑張っているエンジンは?
野球が好きだと言うそれだけ。野球というのは失敗が多いし、その失敗をチームでカバーできる
数少ないスポーツ。だから魅せられているという。
ヤクルトは若手主体のチーム。ここ1~2年で1軍になった選手が多い。
捕手の福川。名捕手古田の陰にいて目立たなかったがここで注目している。
福川には「1球の恐さ」を知ってほしいと厳しくいうことがある。
村中と福川のバッテリー。4回目で和田にホームランを許してしまった。
実は3週間前の中日戦も同じことがあった。
そのときの教訓が生かされてないと厳しい言葉を言った。出てきた福川は涙ぐんでいたという。
福川は24歳で入団。31歳の今、つきぬけて欲しいと思っている。
次の試合も中日戦で、負け、勝率5割を切った。
宮本は選手を集め、もっと頭を使って野球をやろう。多くの時間を野球に費やそう。と言った。
宮本は全身全霊を野球にかけてプロのなかを生き抜いてきた。
起きたときから野球のことを考えている。
福川も努力しているがそれを超える何かがないと生き抜いていけない。
遠征から戻った福川はノートを書き始めていた。相手チームの詳細なデータを残している。
宮本が福川に送ったメール
「お前の出す指に皆の生活がかかっている。
責任持ってやらないかん。」
翌日の巨人戦。9回までノーヒットに抑えた。ところがヒットを許すと突然崩れた。
5点を奪われ敗れた。
試合後、宮本は福川に厳しい言葉をぶつけた。
キャプテン宮本は背中と口でチームをひっぱる。若いチームを強くするために。
プロフェッショナルとは
努力するのはプロとして当たり前。それ以上するのが本当のプロ。
みんなのやってない努力をするのがプロフェッショナル。
2点リードで迎えた8回。バッターは4番ウッズ。
福川はコースを散らし最後は三振に切ってとった。
宮本は初めて「ナイスリード」と福川を褒めた。
************
今回は野球のお話でしたし、書こうかどうか迷ったんですけど
最後の最後に福川捕手を褒めることができてほっとしました。
きっとこの褒めるタイミングを待っていたんでしょうねえ・・
このエピを書けたからここまで書いてきて良かった~と心から思いました^^
試合運びの妙は捕手が握っているんですね。
皆の生活がかかってるといわれたらプレッシャーですが
その采配は凄くやりがいのあるものだと思います。
ヤクルトの選手についても知りませんでしたけど
今度新聞にヤクルトの試合ガ載っていたらちょっと見てみようかな。
穏やかそうな宮本さんが選手を叱咤しながら引っ張っていき、
さらにご自身も練習を厳しく、そして実績も残しているというリーダー性がすばらしかった。
皆がついていきたいと思う人というのは顔にも好かれる相が出ていますよね。
そしてそういう雰囲気が確かにありました。
次回は、 名人戦 森内俊之VS羽生善治
06/25/2008 NHKプロフェッショナル (ガン看護専門看護師 田村恵子)
今週は涙なしでは見られませんでした。ホスピスケアの看護師、田村さん(50)の仕事の流儀。
オープニングはお花見をする患者さんたちとその家族や病院スタッフの皆さん。
田村さんはひと際笑顔です。
ガン医療の高度な知識と技術を持つガン専門看護師。そのパイオニアの一人が田村恵子さん。
終わりはあるけれど生きる希望を持って最後まで生ききる。
「希望は必ず見つかる」
田村さんの勤め先は大阪の淀川キリスト病院。607床の総合病院。
ナース服を選ぶことから一日が始まる。この日はピンクを選ぶ。患者さんがしんどくなってきてるから。
ここの7階のホスピスケア病床で21人の看護師を束ねる師長。看護歴20年。
入院の患者さんはガンの治療の余地がないと宣告された方。
ガン治療を行わず苦痛を和らげる緩和ケアをするのが田村さんたち。
「声にならない声を聞く」
言葉では正確に伝えきれない患者さんの痛みを聞き取る。
顔や表情で伝わるものがあるという。
患者さんたちは迫り来る死に対して恐怖や後悔の念など苦しみを抱えている。
その心の痛みを癒すのも大事な仕事。
肺がんの女性患者さんは痛みガ落ち着いてきたので自宅で家族と暮らす時間を作ることにした。
しかしそれが家族に迷惑をかけるのではと気に病み泣いてしまった。
自分が生き続けることで迷惑をかけると思っている様子だと田村さんはいう。
患者さんのベッドと同じくらいの高さになりとことん話し合うことにした。
希望もなく辛いといい続ける患者さんと1時間ぐらい話していたら、いつのまにか患者さんは
前向きになっていた。「うんうん、つらいね・・そうね・・・」という田村さんの穏やかな笑顔がありました。。
その数日後、笑顔で自宅に帰っていったという。
4月に入院した男性患者さん(36)は舌癌が転移して皮膚がんに進行していた。
医学的には治療の余地はない状態。でも患者さんはもう一度放射線治療に挑みたいという。
すぐに医師たちと会議。医師だけじゃなく看護師も話し合う。
リスクの高さを伝えたうえで本人の選択を促すことにした。
男性の決意は固く、放射線治療を行うことにした。しかしその後は苦痛が高まる予想がある。
田村さんたちは全力で患者さんを支えることを決意していた。
「支えるのは自分らしい人生」
しかしその患者さんは退院してから3週間後、救急車で運ばれてきた。
皮膚からの出血が止まらなくなっていた。
自分でもこんなに早く帰ってくるとは思ってなかったと言っていました。
男性は田村さんに「やりきった」ということを繰り返し話しています。「うんうん」とニコニコして聞いて
いましたが、田村さんが立ち上がったら手を差し出して「ありがとう」と言っていました。
その5日後、男性は亡くなりました。
一人涙する田村さん。
ひとしきり泣いた後、振り切り笑顔になり、次の患者さんに向かいました。
「スタジオin」
命の重さと向き合う日々でね・・と茂木さん。
現場を離れてこうして映像をご覧になるとどんな思いが・・?by住吉さん
ニコニコしていた田村さんがふっと泣きそうに歪みました。
それぞれの人の人生がよみがえってくる感じです。
それを見て住吉さんも涙がぽろぽろ落ちています。
離れているよりも現場にいて患者さんを前にしたほうがニッコリできるかもしれません。
「生き抜いた」という支えがあればいいという。
田村さんはどうやってご自身の心のケアをされていますか?by茂木さん
悲しくないといえば嘘ですが、生き方を間近で見せていただき、生ききった人のパワーを頂いて
次に向かう人に少しでも役立てたらと思う。そんなに萎えてしまう時間もありませんし・・。
痛みを取り除くことはどれくらいできる?by住吉さん。
今は最も痛みを取れるようになってきたそうです。痛みで入院してきた患者さんも7~8割は痛みが
取り除かれている。症状が消えるとその後の生活を考えることもできるし生き方を広げることもできる。
自宅に帰ることで悲観的だった患者さんが前向きに変わっていったことを茂木さんは聞いています。
こういうことはかなりあるそうです。なぜですか?と聞く住吉さん。
今を生きなくてはという思いが患者さんに湧いてくるという。遠い先は分からないけど明日のことを
考えることはできる。うちに帰ったらこんなこともできるかなと、もう一回生きてみようと思い始める。
覚悟が決まった人間は強いですか?と茂木さん。
凄く強いと思います。キッパリ。
「希望は必ず見つかる」
この信念はガンで亡くなった友人に教わった。
その人は秀隆さん(当時35歳)。10年前ボランティア活動で知り合った人。
その時、虫垂ガンで手術をしたばかりだったが、再発を怖れて自分の殻にとじこもっていた。
自分の人生はガンになっただけの人生。
言葉の限りに励ましたが悲観的な様子は変わらなかった・
「何かしたい事はないのか?」つい言ってしまった田村さん。
秀隆さんは応えなかった。でもそれから2ヵ月後に「ピアノが好き」だと言うことを話してくれた。
病院のピアノを弾いて患者さんたちを楽しませてくれるようにまで、心境の変化があった。
その後ガンは再発。手術は不可能と診断。
でも秀隆さんは前向きに生き、バイオリンを始め、フランス語を習い自分の世界を広げていった。
最後は田村さんの病院に入院、「幸せだった」と旅立っていった。
秀隆さんの様子を聞く茂木さん。
前向きな生き方を実践し、体は辛くなっていたのに大阪から京都までバイオリンを習いに行ったり
お友達と映画に出かけていった。印象的だったのは生きた証を残したいと本を作ることにした。
なくなる日までずっと続いていて毎日が充実していた。
秀隆さんとは7年間友情を育まれていたと聞きますが亡くなったときはどんな思いでしたか?by住吉さん
その日は朝から具合が悪く、また本の装丁が上がってくる日だった。見られるかどうか心配していた。
お昼ぐらいに上がってきて秀隆さんはそれを見て「うんうん・・・これでいい」と満足してくれた。
その数時間後に亡くなったという。
やりきったという人生を一緒に分けてもらった気がした。
病気になったら諦めなくてはいけないものがあるけれど秀隆さんは逆に積極的に生きたと茂木さん。
その明るさはどこから?
その日そのときを大事にしようというのはあったと思います。
体はしんどくなっていくけれど心の持ち方で豊かに生きられることを彼自身が実感していたのでは。
人には前向きに生きていく力があると思うという田村さん。
人間は一人でいきてるわけじゃない。自分の生が終わるとわかって、自分をはぐくんだものは何かと
思うようになる。そして一つ一つ検証していって残ったものは身近の親しい人たちのこと。
こういう人たちに支えられているという思いがあれば頑張ろうという前向きさが宿ってくるという。
「絆を支える」
4月半ば。永田さん56歳。
直腸がんから肝臓に転移。治療はできないと宣告された患者さん。
永田さんの心配は娘さんのこと。6/7に結婚するという。それまで生きていたい・・・
医師としては早くして欲しいということだけしか言えないそうです・・・無理かどうか・・わからない・・
式はひと月半後のことです。実は厳しいようです・・。
永田さんには現在の病状をさほど深刻に考えていない様子がありました。
10日後、永田さんが緊急入院してきた。
絶えられないほどの痛みに襲われた。ところが痛みの様子を覚えてないという。
意識障害が現れているという。
記憶があいまいな意識障害が始まると最後の時があと数週間といわれている。
娘が二人いるけれどひとりぐらいは結婚式を見ておきたいという永田さん。
一週間後、足のむくみがひどくなっています。リンパ液の流れが滞っているそうです。
肝臓の腫瘍が大きくなっていた。おなかもかなりふくらんで見えました。
田村さんは永田さんのためにできることをずっと考え続けていました。
そして家族を呼んで病状説明。医師からは来月までは難しいと言っています。
田村さんからの提案は花嫁衣裳で早めに記念撮影を撮ってもらうことはできないかということ。
結婚式を控えた次女は絶対にそれはお父さんが喜ぶといいました。前撮りはできるという。
しかしそれを言う事は、式まで生きられないことを告げるようなもの。悩みます。
その一週間後、腫瘍が内臓を圧迫し吐き気に襲われる永田さん。
いつ急変してもおかしくないところまできていました。
田村さんは多くの別れを経験し一つの確信があった。
自分の最後を納得できれば患者さんは安らかに旅立っていく
「心残さず生ききる」
お父さんに伝えることを決心。それが5/15でした。式は6/7ですが・・・
ところが記念写真を撮ることを家族は言い出せない・・・。
背中を押されて田村さんが説明。
式には行けたら支えるし応援するけれど結婚式の写真を先に撮れるシステムがあるから
いかがでしょうかと聞きました。
すぐに「それは、したいですね」とお父さんが応えました。
そして準備に入ります。寸秒を争う状態のお父さんでした。
3日後の5/18に病院のチャペルを使いました。
きれいな花嫁さん。ウエディングドレスが長くてステキ。
車椅子に座るのも苦痛なお父さんは意識を保つだけで精一杯だったようです。
でも穏やかに写真を撮影。
翌日から意識が低下。翌々日、亡くなりました。写真が間に合ってよかった。
「プロフェッショナルとは」
私の中のこれまでの経験に基づいてできている直感を信じてゆるがないこと。
そして相手の力をそれ以上に信じてあきらめない。
*******************
ホスピスですから最期を迎える患者さんと過ごすことになるんですね。
死と隣り合わせのようですが、前向きに生きることを友人から教わり
それから、その生き方を支える道を歩んできたという田村さんでした。
多くの患者さんが出演してくれてましたが
それぞれの人生を思って涙していた田村さんが印象的です。
最初から最後まで泣きっぱなしでした。
痛みに絶望して入院した患者さんたちも田村さんの笑顔に支えられ
最期を迎えるまでよりパワフルに生きようとする前向きさが出てきたことでしょう。
次回は プロ野球選手 宮本慎也さん 37歳
田村さんはひと際笑顔です。
ガン医療の高度な知識と技術を持つガン専門看護師。そのパイオニアの一人が田村恵子さん。
終わりはあるけれど生きる希望を持って最後まで生ききる。
「希望は必ず見つかる」
田村さんの勤め先は大阪の淀川キリスト病院。607床の総合病院。
ナース服を選ぶことから一日が始まる。この日はピンクを選ぶ。患者さんがしんどくなってきてるから。
ここの7階のホスピスケア病床で21人の看護師を束ねる師長。看護歴20年。
入院の患者さんはガンの治療の余地がないと宣告された方。
ガン治療を行わず苦痛を和らげる緩和ケアをするのが田村さんたち。
「声にならない声を聞く」
言葉では正確に伝えきれない患者さんの痛みを聞き取る。
顔や表情で伝わるものがあるという。
患者さんたちは迫り来る死に対して恐怖や後悔の念など苦しみを抱えている。
その心の痛みを癒すのも大事な仕事。
肺がんの女性患者さんは痛みガ落ち着いてきたので自宅で家族と暮らす時間を作ることにした。
しかしそれが家族に迷惑をかけるのではと気に病み泣いてしまった。
自分が生き続けることで迷惑をかけると思っている様子だと田村さんはいう。
患者さんのベッドと同じくらいの高さになりとことん話し合うことにした。
希望もなく辛いといい続ける患者さんと1時間ぐらい話していたら、いつのまにか患者さんは
前向きになっていた。「うんうん、つらいね・・そうね・・・」という田村さんの穏やかな笑顔がありました。。
その数日後、笑顔で自宅に帰っていったという。
4月に入院した男性患者さん(36)は舌癌が転移して皮膚がんに進行していた。
医学的には治療の余地はない状態。でも患者さんはもう一度放射線治療に挑みたいという。
すぐに医師たちと会議。医師だけじゃなく看護師も話し合う。
リスクの高さを伝えたうえで本人の選択を促すことにした。
男性の決意は固く、放射線治療を行うことにした。しかしその後は苦痛が高まる予想がある。
田村さんたちは全力で患者さんを支えることを決意していた。
「支えるのは自分らしい人生」
しかしその患者さんは退院してから3週間後、救急車で運ばれてきた。
皮膚からの出血が止まらなくなっていた。
自分でもこんなに早く帰ってくるとは思ってなかったと言っていました。
男性は田村さんに「やりきった」ということを繰り返し話しています。「うんうん」とニコニコして聞いて
いましたが、田村さんが立ち上がったら手を差し出して「ありがとう」と言っていました。
その5日後、男性は亡くなりました。
一人涙する田村さん。
ひとしきり泣いた後、振り切り笑顔になり、次の患者さんに向かいました。
「スタジオin」
命の重さと向き合う日々でね・・と茂木さん。
現場を離れてこうして映像をご覧になるとどんな思いが・・?by住吉さん
ニコニコしていた田村さんがふっと泣きそうに歪みました。
それぞれの人の人生がよみがえってくる感じです。
それを見て住吉さんも涙がぽろぽろ落ちています。
離れているよりも現場にいて患者さんを前にしたほうがニッコリできるかもしれません。
「生き抜いた」という支えがあればいいという。
田村さんはどうやってご自身の心のケアをされていますか?by茂木さん
悲しくないといえば嘘ですが、生き方を間近で見せていただき、生ききった人のパワーを頂いて
次に向かう人に少しでも役立てたらと思う。そんなに萎えてしまう時間もありませんし・・。
痛みを取り除くことはどれくらいできる?by住吉さん。
今は最も痛みを取れるようになってきたそうです。痛みで入院してきた患者さんも7~8割は痛みが
取り除かれている。症状が消えるとその後の生活を考えることもできるし生き方を広げることもできる。
自宅に帰ることで悲観的だった患者さんが前向きに変わっていったことを茂木さんは聞いています。
こういうことはかなりあるそうです。なぜですか?と聞く住吉さん。
今を生きなくてはという思いが患者さんに湧いてくるという。遠い先は分からないけど明日のことを
考えることはできる。うちに帰ったらこんなこともできるかなと、もう一回生きてみようと思い始める。
覚悟が決まった人間は強いですか?と茂木さん。
凄く強いと思います。キッパリ。
「希望は必ず見つかる」
この信念はガンで亡くなった友人に教わった。
その人は秀隆さん(当時35歳)。10年前ボランティア活動で知り合った人。
その時、虫垂ガンで手術をしたばかりだったが、再発を怖れて自分の殻にとじこもっていた。
自分の人生はガンになっただけの人生。
言葉の限りに励ましたが悲観的な様子は変わらなかった・
「何かしたい事はないのか?」つい言ってしまった田村さん。
秀隆さんは応えなかった。でもそれから2ヵ月後に「ピアノが好き」だと言うことを話してくれた。
病院のピアノを弾いて患者さんたちを楽しませてくれるようにまで、心境の変化があった。
その後ガンは再発。手術は不可能と診断。
でも秀隆さんは前向きに生き、バイオリンを始め、フランス語を習い自分の世界を広げていった。
最後は田村さんの病院に入院、「幸せだった」と旅立っていった。
秀隆さんの様子を聞く茂木さん。
前向きな生き方を実践し、体は辛くなっていたのに大阪から京都までバイオリンを習いに行ったり
お友達と映画に出かけていった。印象的だったのは生きた証を残したいと本を作ることにした。
なくなる日までずっと続いていて毎日が充実していた。
秀隆さんとは7年間友情を育まれていたと聞きますが亡くなったときはどんな思いでしたか?by住吉さん
その日は朝から具合が悪く、また本の装丁が上がってくる日だった。見られるかどうか心配していた。
お昼ぐらいに上がってきて秀隆さんはそれを見て「うんうん・・・これでいい」と満足してくれた。
その数時間後に亡くなったという。
やりきったという人生を一緒に分けてもらった気がした。
病気になったら諦めなくてはいけないものがあるけれど秀隆さんは逆に積極的に生きたと茂木さん。
その明るさはどこから?
その日そのときを大事にしようというのはあったと思います。
体はしんどくなっていくけれど心の持ち方で豊かに生きられることを彼自身が実感していたのでは。
人には前向きに生きていく力があると思うという田村さん。
人間は一人でいきてるわけじゃない。自分の生が終わるとわかって、自分をはぐくんだものは何かと
思うようになる。そして一つ一つ検証していって残ったものは身近の親しい人たちのこと。
こういう人たちに支えられているという思いがあれば頑張ろうという前向きさが宿ってくるという。
「絆を支える」
4月半ば。永田さん56歳。
直腸がんから肝臓に転移。治療はできないと宣告された患者さん。
永田さんの心配は娘さんのこと。6/7に結婚するという。それまで生きていたい・・・
医師としては早くして欲しいということだけしか言えないそうです・・・無理かどうか・・わからない・・
式はひと月半後のことです。実は厳しいようです・・。
永田さんには現在の病状をさほど深刻に考えていない様子がありました。
10日後、永田さんが緊急入院してきた。
絶えられないほどの痛みに襲われた。ところが痛みの様子を覚えてないという。
意識障害が現れているという。
記憶があいまいな意識障害が始まると最後の時があと数週間といわれている。
娘が二人いるけれどひとりぐらいは結婚式を見ておきたいという永田さん。
一週間後、足のむくみがひどくなっています。リンパ液の流れが滞っているそうです。
肝臓の腫瘍が大きくなっていた。おなかもかなりふくらんで見えました。
田村さんは永田さんのためにできることをずっと考え続けていました。
そして家族を呼んで病状説明。医師からは来月までは難しいと言っています。
田村さんからの提案は花嫁衣裳で早めに記念撮影を撮ってもらうことはできないかということ。
結婚式を控えた次女は絶対にそれはお父さんが喜ぶといいました。前撮りはできるという。
しかしそれを言う事は、式まで生きられないことを告げるようなもの。悩みます。
その一週間後、腫瘍が内臓を圧迫し吐き気に襲われる永田さん。
いつ急変してもおかしくないところまできていました。
田村さんは多くの別れを経験し一つの確信があった。
自分の最後を納得できれば患者さんは安らかに旅立っていく
「心残さず生ききる」
お父さんに伝えることを決心。それが5/15でした。式は6/7ですが・・・
ところが記念写真を撮ることを家族は言い出せない・・・。
背中を押されて田村さんが説明。
式には行けたら支えるし応援するけれど結婚式の写真を先に撮れるシステムがあるから
いかがでしょうかと聞きました。
すぐに「それは、したいですね」とお父さんが応えました。
そして準備に入ります。寸秒を争う状態のお父さんでした。
3日後の5/18に病院のチャペルを使いました。
きれいな花嫁さん。ウエディングドレスが長くてステキ。
車椅子に座るのも苦痛なお父さんは意識を保つだけで精一杯だったようです。
でも穏やかに写真を撮影。
翌日から意識が低下。翌々日、亡くなりました。写真が間に合ってよかった。
「プロフェッショナルとは」
私の中のこれまでの経験に基づいてできている直感を信じてゆるがないこと。
そして相手の力をそれ以上に信じてあきらめない。
*******************
ホスピスですから最期を迎える患者さんと過ごすことになるんですね。
死と隣り合わせのようですが、前向きに生きることを友人から教わり
それから、その生き方を支える道を歩んできたという田村さんでした。
多くの患者さんが出演してくれてましたが
それぞれの人生を思って涙していた田村さんが印象的です。
最初から最後まで泣きっぱなしでした。
痛みに絶望して入院した患者さんたちも田村さんの笑顔に支えられ
最期を迎えるまでよりパワフルに生きようとする前向きさが出てきたことでしょう。
次回は プロ野球選手 宮本慎也さん 37歳
06/18/2008 NHKプロフェッショナル (茶師 前田文男)
静岡の茶畑で若菜をつんで食べてみた前田さん。「みるい」と言っています。
甘みがあるという意味です。今週は茶師の山田文男さん(47歳)の仕事の流儀。
お茶の審査技術大会で日本一になり史上初の十段に上り詰めた。
お茶の前田文男ブランドで通じる凄い人という評判。
4月新茶戦争の幕開け。目指すは高級茶をしのぐ手ごろな価格のお茶。
朝4時に起き、あっせんやという仲介業者に向かいました。
市場に出回らない良質のお茶が手に入るそうです。そこで見本の缶がいくつも貰って帰ります。
祖父の代から続く茶問屋。お茶の歴史は300年以上も前から・
将軍家や大名にお茶を治めていたという。
お茶は何種類もの葉を混ぜ合わせることで極上の味を出す。そこが茶師の腕のみせどころ。
手で触って見て、鼻で嗅ぐ。
「お茶の声に耳をすます」なんかが横切ったように感じる。お茶が訴えている。
いくつものサンプルから甘みの強い葉をひとつ選び10Kの注文を出していました。
次は静岡茶市場。九州から茨木までの葉が集まる。
前田の選び方は一味違う。高知の山奥の葉を見つけた。
爽やかな香りが立つが葉の形が悪く敬遠されていたお茶葉。
手を打っています。お互いの数字と合えば手を打つのね。「手を打つ」の意味をそのままです(笑
「良いお茶ではなく伸びるお茶を選ぶ」のが前だの流儀。
手を掛けたときにどれだけ伸びるお茶か見分けるのでした。
高知のお茶は葉がいびつで敬遠されていたが手をかければおいしくなると読んでいた。
型づめし、ひ出しして細かい葉が落ちていき、さらに網でこしています。
残った葉がいいお茶になった。
空手をする前田さん。普段決心が必要なときにこの空手の心得が自分を押してくれるという。
高知の葉っぱを持ってきて最後の仕上げ。他のお茶とブレンドする合組。
苦味と渋みの高知のお茶と水食美しい静岡のお茶のブレンドを作った。
「チームワーク」
葉っぱの持つそれぞれの長所が引き出されるようなチームワークのいいブレンドを作る。
三つの葉の組み合わせ。納得できるお茶にすること。
スタジオin
親指で手のひらに広げるしぐさでお茶を触る感じをみせてくれました。
合組をする工程を実演しています。
それぞれのお茶ッパの表現がすばらしいのね。
女性らしい香と品のある甘み。男らしい苦味、渋み、香。水色がよく出るコクのるお茶。
遠めですっと見て何かを感じたり、色や力強さなと訴えてくるものを見る。
いくつかを何グラムとはかってあわせています。
お湯は70度。1分弱。
合組する前と後での味の違い。
それぞれの単品のお茶を味わうとその特徴の強さが後味として残っている。
そして合組して「おいしい!」と言ってました(笑
短所を打ち消しあうのが合組のよさだそうです。
よくないお茶同士を組み合わせるとおいしくなることもあるので第一印象で悪いからと諦めない。
付き合うことが大事。人間と同じだという。
家では毎日料理を手伝う。
日本屈指の茶師になるまで長い苦悩があった。
茶師の一家。父もお茶一筋の茶師。
前田は大学卒業後別の道を行きたいと電機メーカーに就職。
3年後に父の後を継いで欲しいと祖父に頼まれる。
下積みをしながらお茶の知識を吸収していった。
2年後にはお茶を見分ける審査技術の全国大会で上位入賞。自信を深めた。
転機は2年後大きな仕入れを任された。
片っ端から見ても何かが足りない。納得いくお茶はひとつしかなかった。ひとつだけ買って帰ると
父に怒鳴られた。他にもいいお茶があったはずだ。他のお茶は何かしら欠点があったと返した。
すると父は「お前にはお茶が見えていない」と言った。
そして仕入れをはずされ他の作業にまわされた。
徹底的に向き合うと決め、売れ残ったお茶を持ち帰り研究。1年経ち2年経っても見えてこない。
5年目。葉の形が悪く売れ残っていた高知産の葉に心が動いた。手に取るとずしっと重い。
心にひっかかった。200Kg50万円を買い付けた。そしてお茶葉と向き合った。
何度もふるいにかけ細かく刻み余分な枝も手作業で一つ一つ落とした。
そして合組をし、他のお茶と組み合わせた。すると化けた。
力強い香が他のお茶をひきたて極上の一杯になった。そのお茶を飲んだ父は、
「こういう光るお茶を買ってこい」と言ってくれた!!
ここから茶師の歩みが始まった。
再び茂木さんと。
お父さんの言葉が厳しかったという茂木さん。
前田さんも天狗になっていた心にずしっときたといいます。鼻っ柱をへし折られてショックだったと。
その後、売れ残ったお茶を研究するために市場に通ったことで「手擦れる」ということで最後は怒られた。
5年も触り続けたら諦めそうなものですが、と住吉さん。
終わりのない問題を解いてるような、いつまでも解けない問題を解いてたと思ってた。
お茶の時期になると夢にまで出たといいます。
その5年間を支えてくれたのは何でしたか?と茂木さん。
見る時間を与えてくれた会社・・・すぐに成果を出せといわれたらできなかったかもしれない。
今の自分があるのはそういう時間を与えてくれた会社と父にも感謝しています。
自分で買ったお茶をけなしたら父と祖父に怒られた。
うちに来たお茶は子供と一緒。どうやって伸ばすか考えろ。
根気強く付き合うことが大事だと、絶対によくして世の中に出すと思っています。
「年に一度の大勝負」
前田が1年に手がけるお茶は50種以上。
そのなかでのこだわりは100g千円ほどの手軽に飲める値ごろで一番の売れ筋茶。
値ごろで美味しいお茶は難しい。安い茶葉の中から光る葉を見つけ出す眼力。
お金を出せばそれなりではあるけれど、このあたりから手を掛けていいものを出すのが腕の見せ所。
3つの産地に目をかけていた。静岡牧の原、静岡本山、高知吾川。
この三つを合組みして高級茶に負けない飲みごたえのあるお茶を作る。
しかしスタートよりつまづいた。求めるお茶が見つからない。その原因は雨。
雨がふると収穫できず、葉が育ちすぎて質が落ちてしまう。
あっせん屋に行った前田さん。求める牧の原の見本がありました。急いでもらい、帰宅。
急いでお茶をみてみると様が変わって予想以上によくない。
結局、レベルが足りず仕入れを控えた。
翌日もあっせん屋。で、気になるお茶を発見。荒削りだが品の良い甘みが見え隠れする。
手をかければいいものになると「買い」だと踏んだ。
3つ目のお茶を探して市場に。
「お茶の声に耳をすます」
そして見つけた。何度も触って味も確かめずその場で買った。
ひとつの策。
お茶の中に眠っている香を引き出す伝統の技法、火入れ。
茶葉を高温で煎ることでお茶葉に眠っている香を呼び覚ます。
火入れの命は温度。とっとも力強い香の出る温度を探す。
窯の温度は87度。もう少し上げて89度。飲み比べ。87度がいい。88度でも試す。
求めるのは匂い立つ強い香。88度で決定。
合組しました。
美味しいお茶ができました。
プロフェッショナルとは?
自分の中にある弱い自分に負けない強い心を持ち続けること。
おごることなく謙虚な気持ちを持ち続け常に努力を惜しまない人。
**********************
お茶はもう毎日なくてはならないものですが、
100g千円が売れ筋とは驚いた(笑
高いですよぉ~ねぇ?
普段は100g300円程度のもので十分。奮発しても500円ぐらいかな~?(^^;
と言いながら、100g1800円のお茶をお得意さまには出してます。
はっきり言って味の違いなどわかりません。
このお茶っ葉は色も茶色に近くお茶を出しても緑よりは深緑色(笑
でもお客様には分かるらしくてこの味が大好きだというのでその銘柄をずっと買い続けています。
だから「女性のような品のある香」とか「きりっとして強い」とか言われても「?」です。
普段、スーパーなんかで買っているお茶はさらに値ごろなんだということがよくわかりました。
お茶屋さんなんかで量り売りを買うぐらいなら通といえるかも。
そういえばお友達にお茶の道の達人がいます。
もちろん、お茶屋さんで買っていましたわ。
しかし面白かったですね。
お茶の葉っぱって単独だとそれぞれの個性が強いんですね。
それをブレンドしておいしいお茶に仕上げるというあの工程に惹かれました。
答えの無い問題を解く気持ちというのわかります。
5年間も美味しいお茶を作るというそれだけのために彷徨ったのが、一見挫折のようでも
実はすばらしい熟成期間だったのですね。
静岡の友人は食事しながらもお茶を飲んでると言ってました。
生活に根付いているのね。
最近はカテキンがさまざまな病気予防に役立つということで飲料業界もお茶は拡大傾向。
せっかくだからおいしいお茶をのみたくなりました。
自分で楽しむために100g千円のお茶、手に入れてきます!!(笑
前田さんのお名前がどこかにでてるんでしょうか??
次回は ガン看護専門看護師 田村恵子さん。
お茶の審査技術大会で日本一になり史上初の十段に上り詰めた。
お茶の前田文男ブランドで通じる凄い人という評判。
4月新茶戦争の幕開け。目指すは高級茶をしのぐ手ごろな価格のお茶。
朝4時に起き、あっせんやという仲介業者に向かいました。
市場に出回らない良質のお茶が手に入るそうです。そこで見本の缶がいくつも貰って帰ります。
祖父の代から続く茶問屋。お茶の歴史は300年以上も前から・
将軍家や大名にお茶を治めていたという。
お茶は何種類もの葉を混ぜ合わせることで極上の味を出す。そこが茶師の腕のみせどころ。
手で触って見て、鼻で嗅ぐ。
「お茶の声に耳をすます」なんかが横切ったように感じる。お茶が訴えている。
いくつものサンプルから甘みの強い葉をひとつ選び10Kの注文を出していました。
次は静岡茶市場。九州から茨木までの葉が集まる。
前田の選び方は一味違う。高知の山奥の葉を見つけた。
爽やかな香りが立つが葉の形が悪く敬遠されていたお茶葉。
手を打っています。お互いの数字と合えば手を打つのね。「手を打つ」の意味をそのままです(笑
「良いお茶ではなく伸びるお茶を選ぶ」のが前だの流儀。
手を掛けたときにどれだけ伸びるお茶か見分けるのでした。
高知のお茶は葉がいびつで敬遠されていたが手をかければおいしくなると読んでいた。
型づめし、ひ出しして細かい葉が落ちていき、さらに網でこしています。
残った葉がいいお茶になった。
空手をする前田さん。普段決心が必要なときにこの空手の心得が自分を押してくれるという。
高知の葉っぱを持ってきて最後の仕上げ。他のお茶とブレンドする合組。
苦味と渋みの高知のお茶と水食美しい静岡のお茶のブレンドを作った。
「チームワーク」
葉っぱの持つそれぞれの長所が引き出されるようなチームワークのいいブレンドを作る。
三つの葉の組み合わせ。納得できるお茶にすること。
スタジオin
親指で手のひらに広げるしぐさでお茶を触る感じをみせてくれました。
合組をする工程を実演しています。
それぞれのお茶ッパの表現がすばらしいのね。
女性らしい香と品のある甘み。男らしい苦味、渋み、香。水色がよく出るコクのるお茶。
遠めですっと見て何かを感じたり、色や力強さなと訴えてくるものを見る。
いくつかを何グラムとはかってあわせています。
お湯は70度。1分弱。
合組する前と後での味の違い。
それぞれの単品のお茶を味わうとその特徴の強さが後味として残っている。
そして合組して「おいしい!」と言ってました(笑
短所を打ち消しあうのが合組のよさだそうです。
よくないお茶同士を組み合わせるとおいしくなることもあるので第一印象で悪いからと諦めない。
付き合うことが大事。人間と同じだという。
家では毎日料理を手伝う。
日本屈指の茶師になるまで長い苦悩があった。
茶師の一家。父もお茶一筋の茶師。
前田は大学卒業後別の道を行きたいと電機メーカーに就職。
3年後に父の後を継いで欲しいと祖父に頼まれる。
下積みをしながらお茶の知識を吸収していった。
2年後にはお茶を見分ける審査技術の全国大会で上位入賞。自信を深めた。
転機は2年後大きな仕入れを任された。
片っ端から見ても何かが足りない。納得いくお茶はひとつしかなかった。ひとつだけ買って帰ると
父に怒鳴られた。他にもいいお茶があったはずだ。他のお茶は何かしら欠点があったと返した。
すると父は「お前にはお茶が見えていない」と言った。
そして仕入れをはずされ他の作業にまわされた。
徹底的に向き合うと決め、売れ残ったお茶を持ち帰り研究。1年経ち2年経っても見えてこない。
5年目。葉の形が悪く売れ残っていた高知産の葉に心が動いた。手に取るとずしっと重い。
心にひっかかった。200Kg50万円を買い付けた。そしてお茶葉と向き合った。
何度もふるいにかけ細かく刻み余分な枝も手作業で一つ一つ落とした。
そして合組をし、他のお茶と組み合わせた。すると化けた。
力強い香が他のお茶をひきたて極上の一杯になった。そのお茶を飲んだ父は、
「こういう光るお茶を買ってこい」と言ってくれた!!
ここから茶師の歩みが始まった。
再び茂木さんと。
お父さんの言葉が厳しかったという茂木さん。
前田さんも天狗になっていた心にずしっときたといいます。鼻っ柱をへし折られてショックだったと。
その後、売れ残ったお茶を研究するために市場に通ったことで「手擦れる」ということで最後は怒られた。
5年も触り続けたら諦めそうなものですが、と住吉さん。
終わりのない問題を解いてるような、いつまでも解けない問題を解いてたと思ってた。
お茶の時期になると夢にまで出たといいます。
その5年間を支えてくれたのは何でしたか?と茂木さん。
見る時間を与えてくれた会社・・・すぐに成果を出せといわれたらできなかったかもしれない。
今の自分があるのはそういう時間を与えてくれた会社と父にも感謝しています。
自分で買ったお茶をけなしたら父と祖父に怒られた。
うちに来たお茶は子供と一緒。どうやって伸ばすか考えろ。
根気強く付き合うことが大事だと、絶対によくして世の中に出すと思っています。
「年に一度の大勝負」
前田が1年に手がけるお茶は50種以上。
そのなかでのこだわりは100g千円ほどの手軽に飲める値ごろで一番の売れ筋茶。
値ごろで美味しいお茶は難しい。安い茶葉の中から光る葉を見つけ出す眼力。
お金を出せばそれなりではあるけれど、このあたりから手を掛けていいものを出すのが腕の見せ所。
3つの産地に目をかけていた。静岡牧の原、静岡本山、高知吾川。
この三つを合組みして高級茶に負けない飲みごたえのあるお茶を作る。
しかしスタートよりつまづいた。求めるお茶が見つからない。その原因は雨。
雨がふると収穫できず、葉が育ちすぎて質が落ちてしまう。
あっせん屋に行った前田さん。求める牧の原の見本がありました。急いでもらい、帰宅。
急いでお茶をみてみると様が変わって予想以上によくない。
結局、レベルが足りず仕入れを控えた。
翌日もあっせん屋。で、気になるお茶を発見。荒削りだが品の良い甘みが見え隠れする。
手をかければいいものになると「買い」だと踏んだ。
3つ目のお茶を探して市場に。
「お茶の声に耳をすます」
そして見つけた。何度も触って味も確かめずその場で買った。
ひとつの策。
お茶の中に眠っている香を引き出す伝統の技法、火入れ。
茶葉を高温で煎ることでお茶葉に眠っている香を呼び覚ます。
火入れの命は温度。とっとも力強い香の出る温度を探す。
窯の温度は87度。もう少し上げて89度。飲み比べ。87度がいい。88度でも試す。
求めるのは匂い立つ強い香。88度で決定。
合組しました。
美味しいお茶ができました。
プロフェッショナルとは?
自分の中にある弱い自分に負けない強い心を持ち続けること。
おごることなく謙虚な気持ちを持ち続け常に努力を惜しまない人。
**********************
お茶はもう毎日なくてはならないものですが、
100g千円が売れ筋とは驚いた(笑
高いですよぉ~ねぇ?
普段は100g300円程度のもので十分。奮発しても500円ぐらいかな~?(^^;
と言いながら、100g1800円のお茶をお得意さまには出してます。
はっきり言って味の違いなどわかりません。
このお茶っ葉は色も茶色に近くお茶を出しても緑よりは深緑色(笑
でもお客様には分かるらしくてこの味が大好きだというのでその銘柄をずっと買い続けています。
だから「女性のような品のある香」とか「きりっとして強い」とか言われても「?」です。
普段、スーパーなんかで買っているお茶はさらに値ごろなんだということがよくわかりました。
お茶屋さんなんかで量り売りを買うぐらいなら通といえるかも。
そういえばお友達にお茶の道の達人がいます。
もちろん、お茶屋さんで買っていましたわ。
しかし面白かったですね。
お茶の葉っぱって単独だとそれぞれの個性が強いんですね。
それをブレンドしておいしいお茶に仕上げるというあの工程に惹かれました。
答えの無い問題を解く気持ちというのわかります。
5年間も美味しいお茶を作るというそれだけのために彷徨ったのが、一見挫折のようでも
実はすばらしい熟成期間だったのですね。
静岡の友人は食事しながらもお茶を飲んでると言ってました。
生活に根付いているのね。
最近はカテキンがさまざまな病気予防に役立つということで飲料業界もお茶は拡大傾向。
せっかくだからおいしいお茶をのみたくなりました。
自分で楽しむために100g千円のお茶、手に入れてきます!!(笑
前田さんのお名前がどこかにでてるんでしょうか??
次回は ガン看護専門看護師 田村恵子さん。
06/11/2008 NHKプロフェッショナル (獣医師 齊藤慶輔)
365日釧路湿原にて絶滅動物の危機を救うのが齊藤慶輔獣医師の仕事。
猛禽類が専門だそうです。別名、動物界のブラックジャックとも呼ばれています。
「野生の命をあきらめない」
国立公園釧路湿原、野生動物保護センターが齊藤獣医師の勤め先。
野生動物専門の医師。スタッフは三人。
朝一番に動物の回診。多くは車や列車にはねられた交通事故の怪我。
齊藤はオオワシ、シマフクロウなど猛禽類の専門家。
シマフクロウは国内で120羽のみ。絶滅の危機に瀕しているそうです。
かわいいでしょ?と言われてもねえ・・・(笑
列車にはねられ左の翼を失っていたシマフクロウがやってきました。
ペットや家畜と違い野性の動物に教科書はなく手探りで治療法を開拓していった齊藤医師。
顔を見て痛がってるかとか、くちばしやわずかの動きで様子をみるそうです。
ひとつの覚悟。
「自分しかいないんだ」
今、この動物の前には自分しかいないということを胆に命じ最善を尽くすと決めている。
「野のものは野へ」
齊藤の最終的な目標は鳥を野に返すことにある。
傷が癒えた鳥はリハビリケージに入れ野生に戻す訓練をする。
治療のために保護された鳥は闘争本能が衰えているのでそれを取り戻さないといけない。
人の姿を消し、自然に慣れさせ、最後はわざと姿を見せて近付いたときの警戒度で野生に返す
時期を計るようです。
そしてその日がくるとダンボールに入れて運び「もう帰ってくるなよ」と声をかけています。
飛び立っていきました。
鳥達は絶滅の危機に瀕している。
それは森林伐採や河川の整備で獲物を急速に奪われ絶滅に向かっているということ
猛禽類は生態系の頂点にたっている。絶滅すればその影響ははかりしれない。
その危機感が齊藤を仕事に駆り立てる。
知床に傷ついたオジロワシがいると連絡が入った。
電線にふれて全身やけど。まぶたもこげ、脱水症状。一刻も争う状態で厳しいと漏らしています。
すぐに点滴、止血、ステロイド、抗生剤・・・人間と同じように手当てをしています。
体温が低下し、呼吸も浅く重態。でも齊藤は諦めない。
「治すのではなく治す力を引き出す」
オジロワシはボロボロの体で必死に泣き声をあげた。
全身やけどで立つのもやっとなのに声をあげたという。
ピンセットで肉を食べさせています。自分で食べる力があるというのはすばらしい。
二時間後、体温が上がり始めた・・ほっとしました・・・。
「スタジオin」
あのオジロワシは現在山場を越えて、手術をできるところまで回復したそうです。
ネクタイ上部にバードカーピング。鳥の羽みたいな模様です。猛禽類が好きだと言っています。
ワシなどはくちばしがとがっているが怪我はない?気を抜くとある・・と応えてました。それは・・
10年前オオワシの治療をして爪が手を貫通したことがある・・ええ~痛そう・・・。
足を骨折したワシなんでまさかつかまれるとは思わなかった。油断していたそうです。
そしてそのつかんだ手をワシの爪が貫通して反対からでてきた。両手が危機。大出血。
とっさに口でタオルをつかみワシの顔になげた。目をふさがれたワシがタオルを取ろうとした隙を作る。
まずワシをしっかりつかみ、拘束してから自分の手当てをしたとか・・・おっかなすぎますねぇ~。
「プロフェッショナルの道具」
皮手袋とシート。
オジロワシのぬいぐるみを持ってきました。実物大です。羽を広げると2M40㌢。大きい~~@@
皮の手袋は長いです。その手袋でもって仰向けにし、両足をつかんでしまう。
そしてジャケットと呼んでいる青いシートの上に寝かせます。
いくつもの切込みが入り、マジックテープで止められるようになっています。
手当てをしたい羽を残し、マジックテープで体を動かないようにひとつひとつ止めていきます。
上手くできていて感心しました。そしてフードと呼ぶ立方体になった皮をくちばしにはめる。
ほぼ顔が隠れるので目が見えない状態。大人しくなりますが鳥には不安があるのです。
だから「触るよ」と声をかけている。
猛気類は最後の最後まで人間が見ているとしゃきっとする。どんなに調子が悪くても人間に弱みを
見せないそうです。物陰に隠れて姿を消すととたんにくしゃんとなるとか。また姿をみるとしゃきっとなる。
だから目を覆うことで治療しやすくするのだそうです。
齊藤は13歳までフランスのベルサイユで育った。写真が出ました。とっても美少年です。
森に囲まれた田舎町。課外授業の先生は獣医師で動物の話。その先生に夢中になったそうです。
大学は獣医学部に進学。卒業後は動物病院で働いた。最新医療で夢中に命を救っていった。
ある日、おなかにしこりがある老犬を診た。乳がん。放っておけば命が消える・・。
しかし雑種なので「治療はいいです」と・・・・。
できるなら救ってやりたかったという齊藤。悶々とした気持ちが野生動物へと向いていった。
そのなかで興味を持ったのが渡り鳥の生態。
休日を利用し、鳥の観察と研究者の調査にも加わった。
転機は30歳の冬。北海道の野生動物の獣医師にならないかと声がかかった。
死んだ大鷲が運ばれてきた。次から次へと。死因は鉛による中毒。危機感が募った。
「このままではオオワシは絶滅してしまう」
何が起こっているのか必死に調べた。結果、鹿の毛と鉛の銃弾がでてきた。
ハンターに駆除された鹿をついばみ、弾丸も一緒にのみこんでいたということ。
すぐに仲間とともに動き出した齊藤は、行政やハンターにはたらきかけて鉛を使わないように要請。
なかなか取り合ってもらえない中で、齊藤たちは山にいき、鹿の死骸を片付けた。
そして講演を行い中毒性の低い銅の弾丸にかえる様に訴えていった。
2年後ハンターたちが鉛から銅に変え始め、行政も条例を作り北海道の鹿猟では鉛は禁止になった。
絶滅を食い止めるためになりふり構わずに運動する齊藤の歩みがこうして始まった。
★再びスタジオ★
次々と運ばれてくるオオワシの死体を前に自然界で何が起こってるのかを知りたいと素朴に思った。
そして、原因がわかり、すぐに動き始めた。
しかしすぐには受け入れてもらえなかった。
その時は脅迫電話だったり、封書が送られてきたりと思い出したくないほどの思いをさせられたそうです。
妨害をするのは行政ではなくてハンター達ですよね・・・
オオワシが絶滅したら生態系も狂うという話でしたからこれは大変なことなんですね。
ある日、講演をしているところに猟銃をかついたハンターが入ってきた。
その人は新聞で鉛中毒の記事を読んだから銅の弾丸を使っているという。
やはりその道のエキスパートはハンターだから、反目し合ってはいけないと思った。
情報共有して、専門家集団を作ることにした。
感情的にならずデータや統計を出すことで冷静に情報を共有しているというのがすごいと茂木さん。
やはり自分も人間だから感情的になってしまうし、こっちが正しいと思うところもある。
しかし、人間が作った悪環境だから・・・
結局は人間の手で治して動物達を自然に帰すというお手伝いでもって責任をはたす。
交通事故で運ばれてきたオジロワシは治療後4ヶ月が経過している。
右目は見えてない。
それでも齊藤は野生に返したいと思っている。
リハビリケージに入れたオジロワシ。
網で囲まれたケージですが自然は自然。羽ばたき飛んでますが、難航しているとのこと。
野生で生きていくには警戒心と闘争心が必要。しかし右目が見えないので周囲に強い恐怖心があり
しかも人の手で餌を食べていたから警戒心も薄れた。
これを野生に戻すのは並大抵ではない。
齊藤は荒療治に出た。一回り大きいオオワシをリハビリケージに入れた。
通常は傷つけあうのでこういう方法はとらない。しかし、野生の本能を取り戻すべく、考えた末に。
ワシ同士の警戒心、闘争心、距離のとり方など、メンタル面でのリハビリにもなる。
そして餌も野生のオジロワシが好む海のサカナに変えた。量もぎりぎりに減らし、オオワシと闘うことを
思い出させるようにした。野生の本能を取り戻すということ。
野に返してやりたいですね、とうなずく齊藤医師。
NGOの集会。サハリンの森林伐採の件。
ここにはオオワシの繁殖地があり、伐採されるとまた絶滅に向かってしまう。
「こんな手ぬるいことしていたら間に合わない」という・・・深刻
オジロオオワシ。リハビリ17日目。
怖気づいて止まり木から離れなかったオジロワシが積極的に地面に降りるようになった。
滑空、旋回、着地。力強さが戻ってきた。相手から逃げる能力があるということは余裕が生まれる。
筋力が戻り、飛ぶ力が強くなったことで精神的にも強くなったと齊藤は判断。
そしてケージに向かい姿を見せた。トリが警戒の姿勢をみせた。羽を高くして威嚇しています。
これはいい傾向だと齊藤は言った。
かつての苦い経験。大丈夫だと判断し野に返したワシが数ヵ月後、やせ衰えて戻ってきた。
何らかの理由で自分で餌を捕れなかったようだ。
だからこそこの右目の見えないオジロワシを野に返す時期を慎重に判断しないといけない。
本当に野生で生きていく力が戻っているのか。
「どちらが彼の幸せか」
齊藤はオジロワシを野に返すことに決めた。
釧路湿原。
治療4ヶ月。リハビリ一ヶ月。5ヶ月も人間のもとにいたけれど・・・
かごの戸をあけました。飛べと声をかけています。
迷いなく一直線に飛び立って遠くの木の枝に止まりました。
双眼鏡で見ています。どんな気持ちでしょうね・・・齊藤さん、父親みたいだとふと思いました。
落ち着き払い左目で周囲を見ていたオジロワシ。誇り高き野生のワシの顔。
30分後、釧路湿原の奥へと力強く羽ばたいていきました。
よく頑張ったと言っています。ちょっと泣きそうです。
プロフェッショナルとは
どのような状況においても自分の使命を果たすことができる人。
そして人が全く予定していなかったプラスアルファをゲットできる人。
オジロワシが鳥かごの中から飛び立ったときは感動で鳥肌でしたわ~。
手塩にかけた子供の成長を見守るような気分ですよね。
本当にすばらしかった。
鳥に限らず動物にはあんまり興味がなかったけど
すごくひきつけられて行きました。
とっても良かったです。
自分の生きる道を見つけた人は本当に輝いて見えますね。
齊藤さん、すばらしい生き方をありがとう。
次は 茶師 前田文男さん。
「野生の命をあきらめない」
国立公園釧路湿原、野生動物保護センターが齊藤獣医師の勤め先。
野生動物専門の医師。スタッフは三人。
朝一番に動物の回診。多くは車や列車にはねられた交通事故の怪我。
齊藤はオオワシ、シマフクロウなど猛禽類の専門家。
シマフクロウは国内で120羽のみ。絶滅の危機に瀕しているそうです。
かわいいでしょ?と言われてもねえ・・・(笑
列車にはねられ左の翼を失っていたシマフクロウがやってきました。
ペットや家畜と違い野性の動物に教科書はなく手探りで治療法を開拓していった齊藤医師。
顔を見て痛がってるかとか、くちばしやわずかの動きで様子をみるそうです。
ひとつの覚悟。
「自分しかいないんだ」
今、この動物の前には自分しかいないということを胆に命じ最善を尽くすと決めている。
「野のものは野へ」
齊藤の最終的な目標は鳥を野に返すことにある。
傷が癒えた鳥はリハビリケージに入れ野生に戻す訓練をする。
治療のために保護された鳥は闘争本能が衰えているのでそれを取り戻さないといけない。
人の姿を消し、自然に慣れさせ、最後はわざと姿を見せて近付いたときの警戒度で野生に返す
時期を計るようです。
そしてその日がくるとダンボールに入れて運び「もう帰ってくるなよ」と声をかけています。
飛び立っていきました。
鳥達は絶滅の危機に瀕している。
それは森林伐採や河川の整備で獲物を急速に奪われ絶滅に向かっているということ
猛禽類は生態系の頂点にたっている。絶滅すればその影響ははかりしれない。
その危機感が齊藤を仕事に駆り立てる。
知床に傷ついたオジロワシがいると連絡が入った。
電線にふれて全身やけど。まぶたもこげ、脱水症状。一刻も争う状態で厳しいと漏らしています。
すぐに点滴、止血、ステロイド、抗生剤・・・人間と同じように手当てをしています。
体温が低下し、呼吸も浅く重態。でも齊藤は諦めない。
「治すのではなく治す力を引き出す」
オジロワシはボロボロの体で必死に泣き声をあげた。
全身やけどで立つのもやっとなのに声をあげたという。
ピンセットで肉を食べさせています。自分で食べる力があるというのはすばらしい。
二時間後、体温が上がり始めた・・ほっとしました・・・。
「スタジオin」
あのオジロワシは現在山場を越えて、手術をできるところまで回復したそうです。
ネクタイ上部にバードカーピング。鳥の羽みたいな模様です。猛禽類が好きだと言っています。
ワシなどはくちばしがとがっているが怪我はない?気を抜くとある・・と応えてました。それは・・
10年前オオワシの治療をして爪が手を貫通したことがある・・ええ~痛そう・・・。
足を骨折したワシなんでまさかつかまれるとは思わなかった。油断していたそうです。
そしてそのつかんだ手をワシの爪が貫通して反対からでてきた。両手が危機。大出血。
とっさに口でタオルをつかみワシの顔になげた。目をふさがれたワシがタオルを取ろうとした隙を作る。
まずワシをしっかりつかみ、拘束してから自分の手当てをしたとか・・・おっかなすぎますねぇ~。
「プロフェッショナルの道具」
皮手袋とシート。
オジロワシのぬいぐるみを持ってきました。実物大です。羽を広げると2M40㌢。大きい~~@@
皮の手袋は長いです。その手袋でもって仰向けにし、両足をつかんでしまう。
そしてジャケットと呼んでいる青いシートの上に寝かせます。
いくつもの切込みが入り、マジックテープで止められるようになっています。
手当てをしたい羽を残し、マジックテープで体を動かないようにひとつひとつ止めていきます。
上手くできていて感心しました。そしてフードと呼ぶ立方体になった皮をくちばしにはめる。
ほぼ顔が隠れるので目が見えない状態。大人しくなりますが鳥には不安があるのです。
だから「触るよ」と声をかけている。
猛気類は最後の最後まで人間が見ているとしゃきっとする。どんなに調子が悪くても人間に弱みを
見せないそうです。物陰に隠れて姿を消すととたんにくしゃんとなるとか。また姿をみるとしゃきっとなる。
だから目を覆うことで治療しやすくするのだそうです。
齊藤は13歳までフランスのベルサイユで育った。写真が出ました。とっても美少年です。
森に囲まれた田舎町。課外授業の先生は獣医師で動物の話。その先生に夢中になったそうです。
大学は獣医学部に進学。卒業後は動物病院で働いた。最新医療で夢中に命を救っていった。
ある日、おなかにしこりがある老犬を診た。乳がん。放っておけば命が消える・・。
しかし雑種なので「治療はいいです」と・・・・。
できるなら救ってやりたかったという齊藤。悶々とした気持ちが野生動物へと向いていった。
そのなかで興味を持ったのが渡り鳥の生態。
休日を利用し、鳥の観察と研究者の調査にも加わった。
転機は30歳の冬。北海道の野生動物の獣医師にならないかと声がかかった。
死んだ大鷲が運ばれてきた。次から次へと。死因は鉛による中毒。危機感が募った。
「このままではオオワシは絶滅してしまう」
何が起こっているのか必死に調べた。結果、鹿の毛と鉛の銃弾がでてきた。
ハンターに駆除された鹿をついばみ、弾丸も一緒にのみこんでいたということ。
すぐに仲間とともに動き出した齊藤は、行政やハンターにはたらきかけて鉛を使わないように要請。
なかなか取り合ってもらえない中で、齊藤たちは山にいき、鹿の死骸を片付けた。
そして講演を行い中毒性の低い銅の弾丸にかえる様に訴えていった。
2年後ハンターたちが鉛から銅に変え始め、行政も条例を作り北海道の鹿猟では鉛は禁止になった。
絶滅を食い止めるためになりふり構わずに運動する齊藤の歩みがこうして始まった。
★再びスタジオ★
次々と運ばれてくるオオワシの死体を前に自然界で何が起こってるのかを知りたいと素朴に思った。
そして、原因がわかり、すぐに動き始めた。
しかしすぐには受け入れてもらえなかった。
その時は脅迫電話だったり、封書が送られてきたりと思い出したくないほどの思いをさせられたそうです。
妨害をするのは行政ではなくてハンター達ですよね・・・
オオワシが絶滅したら生態系も狂うという話でしたからこれは大変なことなんですね。
ある日、講演をしているところに猟銃をかついたハンターが入ってきた。
その人は新聞で鉛中毒の記事を読んだから銅の弾丸を使っているという。
やはりその道のエキスパートはハンターだから、反目し合ってはいけないと思った。
情報共有して、専門家集団を作ることにした。
感情的にならずデータや統計を出すことで冷静に情報を共有しているというのがすごいと茂木さん。
やはり自分も人間だから感情的になってしまうし、こっちが正しいと思うところもある。
しかし、人間が作った悪環境だから・・・
結局は人間の手で治して動物達を自然に帰すというお手伝いでもって責任をはたす。
交通事故で運ばれてきたオジロワシは治療後4ヶ月が経過している。
右目は見えてない。
それでも齊藤は野生に返したいと思っている。
リハビリケージに入れたオジロワシ。
網で囲まれたケージですが自然は自然。羽ばたき飛んでますが、難航しているとのこと。
野生で生きていくには警戒心と闘争心が必要。しかし右目が見えないので周囲に強い恐怖心があり
しかも人の手で餌を食べていたから警戒心も薄れた。
これを野生に戻すのは並大抵ではない。
齊藤は荒療治に出た。一回り大きいオオワシをリハビリケージに入れた。
通常は傷つけあうのでこういう方法はとらない。しかし、野生の本能を取り戻すべく、考えた末に。
ワシ同士の警戒心、闘争心、距離のとり方など、メンタル面でのリハビリにもなる。
そして餌も野生のオジロワシが好む海のサカナに変えた。量もぎりぎりに減らし、オオワシと闘うことを
思い出させるようにした。野生の本能を取り戻すということ。
野に返してやりたいですね、とうなずく齊藤医師。
NGOの集会。サハリンの森林伐採の件。
ここにはオオワシの繁殖地があり、伐採されるとまた絶滅に向かってしまう。
「こんな手ぬるいことしていたら間に合わない」という・・・深刻
オジロオオワシ。リハビリ17日目。
怖気づいて止まり木から離れなかったオジロワシが積極的に地面に降りるようになった。
滑空、旋回、着地。力強さが戻ってきた。相手から逃げる能力があるということは余裕が生まれる。
筋力が戻り、飛ぶ力が強くなったことで精神的にも強くなったと齊藤は判断。
そしてケージに向かい姿を見せた。トリが警戒の姿勢をみせた。羽を高くして威嚇しています。
これはいい傾向だと齊藤は言った。
かつての苦い経験。大丈夫だと判断し野に返したワシが数ヵ月後、やせ衰えて戻ってきた。
何らかの理由で自分で餌を捕れなかったようだ。
だからこそこの右目の見えないオジロワシを野に返す時期を慎重に判断しないといけない。
本当に野生で生きていく力が戻っているのか。
「どちらが彼の幸せか」
齊藤はオジロワシを野に返すことに決めた。
釧路湿原。
治療4ヶ月。リハビリ一ヶ月。5ヶ月も人間のもとにいたけれど・・・
かごの戸をあけました。飛べと声をかけています。
迷いなく一直線に飛び立って遠くの木の枝に止まりました。
双眼鏡で見ています。どんな気持ちでしょうね・・・齊藤さん、父親みたいだとふと思いました。
落ち着き払い左目で周囲を見ていたオジロワシ。誇り高き野生のワシの顔。
30分後、釧路湿原の奥へと力強く羽ばたいていきました。
よく頑張ったと言っています。ちょっと泣きそうです。
プロフェッショナルとは
どのような状況においても自分の使命を果たすことができる人。
そして人が全く予定していなかったプラスアルファをゲットできる人。
オジロワシが鳥かごの中から飛び立ったときは感動で鳥肌でしたわ~。
手塩にかけた子供の成長を見守るような気分ですよね。
本当にすばらしかった。
鳥に限らず動物にはあんまり興味がなかったけど
すごくひきつけられて行きました。
とっても良かったです。
自分の生きる道を見つけた人は本当に輝いて見えますね。
齊藤さん、すばらしい生き方をありがとう。
次は 茶師 前田文男さん。