03/16/2009 落日燃ゆ
とても潔かったけれど、哀しかった・・
時は遡り、昭和に改元された日本。その頃日本は、アメリカ・ウォール街での株価暴落のあおりをうけ、空前の不況に見舞われていた。そして、この状況を打開するため、一部軍人は広大な満州の地に目を向ける。昭和6年9月、満州事変が勃発。
その頃駐ソ大使を務めていた廣田は、ソ連政府に厳正中立を求めることに全力を注いでいた。血を流さずに国益のために戦う。廣田はそんな独自の哲学を持って粛々と日本の平和を願い、活動していた。
任期を終え帰国した廣田は妻の静子(高橋惠子)と湘南海岸を散歩していた。
「これ覚えていますか?」
静子が取り出したのは貝殻細工の指輪だった。江ノ島に新婚旅行に行った際に、まだ金がなかった廣田がダイヤの指輪の代わりに静子にプレゼントしたものだ。
「もちろん覚えているさ」
廣田にはいくつか名門の娘との縁談話があったがすべて断り、学生時代に知り合った静子と結婚していた。
そんな時、廣田の元に、首相秘書官より一本の電話が鳴る。昭和8年9月、廣田弘毅は斉藤実(織本順吉)内閣の外務大臣に任命され、就任したのだった。
廣田は盟友・吉田茂(津川雅彦)を特命大臣に据え、世界各国、特に中国関係での親善回復を目指した平和工作を目標に掲げる。しかし、この廣田の行動を『国賊』と揶揄する者も少なくはなかった。
岡田啓介(窪田弘和)内閣でも外務大臣に留任した廣田は、中国駐在代表を公使から大使に昇格させるなど、依然として平和工作を中心とした外交を展開する。
そんな中、事件は起こる。非戦派の永田軍務局長(笹木俊志)が皇道派将校に暗殺されたのだ。軍内部は統制がとれないほどの混乱状態にあった。
そしてその直後の昭和11年2月26日、雪の降りしきる中を、1500名あまりの将兵が蜂起して、霞ヶ関一帯を進軍、高橋是清蔵相(神山繁)、斉藤実内大臣、鈴木侍従長(東孝)、松尾伝蔵大佐(江原政一)らを次々と襲って殺傷した。世にいう二・二六事件――。
クーデター鎮圧後、元老・西園寺公望(大滝秀治)を中心とした重臣たちは次期総理大臣を誰にするか重苦しい雰囲気の中にいた。その時、西園寺が思いついたように一言告げた。
「次は背広を着たやつがいい」
廣田を首相に――その知らせを廣田に伝える役目を担ったのは盟友・吉田茂であった。
「こんな時期の首相就任は貧乏くじだ。だが俺も協力する。引き受けろ」
逡巡した廣田であったが、それを受け入れた。
「私はこの国を潰したくない。君たちのために、イヤ、日本国民のために」
長男・弘雄(木村彰吾)、三男・正雄(山本耕史)、次女の美代子(遠野凪子)、三女の登代子(原田夏希)、そして最愛の妻・静子。家族の前で力強く宣言する廣田だった。
しかし、軍部は“統帥権の独立”を楯に次々と独断で行動を起こしていく。ドイツ・イタリアと組んでいた防共協定を三国同盟へと発展させ、アメリカ・イギリスと対立。東条首相(小峰隆司)政権のさなか、太平洋戦争へと突入していく。
昭和20年8月、日本は敗戦を迎える。そして日本を占領した連合軍総司令部は、東条首相や東条内閣閣僚を中心に、100名あまりの戦犯逮捕状を出した。そして、その中に、廣田の名前もあった。
「なんでお父様が戦争犯罪人なの?お父様は戦争を起こさないためにあんなに頑張ってきたんじゃない」
そんな登代子を静子は優しく抱きしめるのだった。
昭和21年1月15日、この日出頭する廣田を、家族が見送る。
「私は疚しいことは何もない。常に国のために命を賭してきた。しかし、一切の弁解もしない」
出頭の直前にあって、あまりにも廣田らしいその言葉に、家族はただ涙を流した。
その年の5月、広田は東条首相らとともに、A級戦犯として裁かれることとなる。罪状認否で逡巡しながらも「無罪」と答えた廣田に安堵する家族たちだった。だが、廣田は裁判で自身の言動に関し弁明は一切しなかった。
その後、面会室で会話をする廣田と静子。懐かしい話に花が咲き、笑顔で振舞う静子だったが、その表情には、何か決意めいたものが感じられた・・・
昨年のクリスマスイブに「あの戦争は何だったのか」(←クリック)を見ましたが
あの時は東条英機でした。
今回は廣田弘毅@北大路欣也の巻です。
同じでしたね。
戦争に向かうときは反対勢力なんて何の力も持ちません。
そのエネルギーには刃向かえないものがあったようで
大きな渦に巻き込まれるように、戦争へ戦争へと流れ、つき進んでしまいました。
関東軍の満州支配とか、盧溝橋事件とか、二二六事件とか、統帥権の独立とか・・・・
きっかけはさまざまなものがありましたが、
あの時は世界中が戦争を求めていたということなんでしょうねえ。
文官としてただ一人処刑されたというのがこの廣田弘毅。
首相になり、外交官を務め、平和外交を掲げたけれど
戦争を防ぐことはできませんでした。
「自ら計らわず」を信条としたこの人は
一切、弁解をせずに裁判も全て成行にまかせていました。
戦争の責任を取るものが文官で必要なら自分がなるだろうという
覚悟を決めていたのがなんとも悲痛でした。
もしも口を開き、何らかの証言をすれば
誰かが迷惑を被るということで
自分が引き受けるという意志を貫き通したのが驚くほどの潔さでした。
戦争を回避するために最も尽力したというのに
理不尽な判決に家族や彼を知るものは悲嘆にくれました。
それにしても散り際の美しさたるや見事でした。
このA級戦犯として処刑された7名の遺骨は一緒に埋葬されていたそうですが
戦後10年ほどしてそれぞれ分けて家族に返したそうです。
ただ一人、廣田家だけは引き取らなかったといことです。
遺骨を一緒にするという考えがそもそも、ひどい話です。
ただ、当時政治に携わっていた人たちは誰にも
戦争を回避などできなかっただろうことは
歴史が証明しているのです。
二度と戦争は許さないという気持ちにさせられたのが収穫でしたが
しかし、重苦しいテーマのなかで
北大路さんのきりりと光る目が印象に残りました。
大変引き込まれたドラマでした。
その頃駐ソ大使を務めていた廣田は、ソ連政府に厳正中立を求めることに全力を注いでいた。血を流さずに国益のために戦う。廣田はそんな独自の哲学を持って粛々と日本の平和を願い、活動していた。
任期を終え帰国した廣田は妻の静子(高橋惠子)と湘南海岸を散歩していた。
「これ覚えていますか?」
静子が取り出したのは貝殻細工の指輪だった。江ノ島に新婚旅行に行った際に、まだ金がなかった廣田がダイヤの指輪の代わりに静子にプレゼントしたものだ。
「もちろん覚えているさ」
廣田にはいくつか名門の娘との縁談話があったがすべて断り、学生時代に知り合った静子と結婚していた。
そんな時、廣田の元に、首相秘書官より一本の電話が鳴る。昭和8年9月、廣田弘毅は斉藤実(織本順吉)内閣の外務大臣に任命され、就任したのだった。
廣田は盟友・吉田茂(津川雅彦)を特命大臣に据え、世界各国、特に中国関係での親善回復を目指した平和工作を目標に掲げる。しかし、この廣田の行動を『国賊』と揶揄する者も少なくはなかった。
岡田啓介(窪田弘和)内閣でも外務大臣に留任した廣田は、中国駐在代表を公使から大使に昇格させるなど、依然として平和工作を中心とした外交を展開する。
そんな中、事件は起こる。非戦派の永田軍務局長(笹木俊志)が皇道派将校に暗殺されたのだ。軍内部は統制がとれないほどの混乱状態にあった。
そしてその直後の昭和11年2月26日、雪の降りしきる中を、1500名あまりの将兵が蜂起して、霞ヶ関一帯を進軍、高橋是清蔵相(神山繁)、斉藤実内大臣、鈴木侍従長(東孝)、松尾伝蔵大佐(江原政一)らを次々と襲って殺傷した。世にいう二・二六事件――。
クーデター鎮圧後、元老・西園寺公望(大滝秀治)を中心とした重臣たちは次期総理大臣を誰にするか重苦しい雰囲気の中にいた。その時、西園寺が思いついたように一言告げた。
「次は背広を着たやつがいい」
廣田を首相に――その知らせを廣田に伝える役目を担ったのは盟友・吉田茂であった。
「こんな時期の首相就任は貧乏くじだ。だが俺も協力する。引き受けろ」
逡巡した廣田であったが、それを受け入れた。
「私はこの国を潰したくない。君たちのために、イヤ、日本国民のために」
長男・弘雄(木村彰吾)、三男・正雄(山本耕史)、次女の美代子(遠野凪子)、三女の登代子(原田夏希)、そして最愛の妻・静子。家族の前で力強く宣言する廣田だった。
しかし、軍部は“統帥権の独立”を楯に次々と独断で行動を起こしていく。ドイツ・イタリアと組んでいた防共協定を三国同盟へと発展させ、アメリカ・イギリスと対立。東条首相(小峰隆司)政権のさなか、太平洋戦争へと突入していく。
昭和20年8月、日本は敗戦を迎える。そして日本を占領した連合軍総司令部は、東条首相や東条内閣閣僚を中心に、100名あまりの戦犯逮捕状を出した。そして、その中に、廣田の名前もあった。
「なんでお父様が戦争犯罪人なの?お父様は戦争を起こさないためにあんなに頑張ってきたんじゃない」
そんな登代子を静子は優しく抱きしめるのだった。
昭和21年1月15日、この日出頭する廣田を、家族が見送る。
「私は疚しいことは何もない。常に国のために命を賭してきた。しかし、一切の弁解もしない」
出頭の直前にあって、あまりにも廣田らしいその言葉に、家族はただ涙を流した。
その年の5月、広田は東条首相らとともに、A級戦犯として裁かれることとなる。罪状認否で逡巡しながらも「無罪」と答えた廣田に安堵する家族たちだった。だが、廣田は裁判で自身の言動に関し弁明は一切しなかった。
その後、面会室で会話をする廣田と静子。懐かしい話に花が咲き、笑顔で振舞う静子だったが、その表情には、何か決意めいたものが感じられた・・・
昨年のクリスマスイブに「あの戦争は何だったのか」(←クリック)を見ましたが
あの時は東条英機でした。
今回は廣田弘毅@北大路欣也の巻です。
同じでしたね。
戦争に向かうときは反対勢力なんて何の力も持ちません。
そのエネルギーには刃向かえないものがあったようで
大きな渦に巻き込まれるように、戦争へ戦争へと流れ、つき進んでしまいました。
関東軍の満州支配とか、盧溝橋事件とか、二二六事件とか、統帥権の独立とか・・・・
きっかけはさまざまなものがありましたが、
あの時は世界中が戦争を求めていたということなんでしょうねえ。
文官としてただ一人処刑されたというのがこの廣田弘毅。
首相になり、外交官を務め、平和外交を掲げたけれど
戦争を防ぐことはできませんでした。
「自ら計らわず」を信条としたこの人は
一切、弁解をせずに裁判も全て成行にまかせていました。
戦争の責任を取るものが文官で必要なら自分がなるだろうという
覚悟を決めていたのがなんとも悲痛でした。
もしも口を開き、何らかの証言をすれば
誰かが迷惑を被るということで
自分が引き受けるという意志を貫き通したのが驚くほどの潔さでした。
戦争を回避するために最も尽力したというのに
理不尽な判決に家族や彼を知るものは悲嘆にくれました。
それにしても散り際の美しさたるや見事でした。
このA級戦犯として処刑された7名の遺骨は一緒に埋葬されていたそうですが
戦後10年ほどしてそれぞれ分けて家族に返したそうです。
ただ一人、廣田家だけは引き取らなかったといことです。
遺骨を一緒にするという考えがそもそも、ひどい話です。
ただ、当時政治に携わっていた人たちは誰にも
戦争を回避などできなかっただろうことは
歴史が証明しているのです。
二度と戦争は許さないという気持ちにさせられたのが収穫でしたが
しかし、重苦しいテーマのなかで
北大路さんのきりりと光る目が印象に残りました。
大変引き込まれたドラマでした。
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