01/17/2010 神戸新聞の七日間
今日は阪神大震災のあった日。あれから15年経ちました。犠牲になられた方々の冥福をお祈りします。
1995年1月17日(火)午前5時46分。阪神・淡路大震災発生。当時、神戸新聞社・写真部記者の三津山朋彦(櫻井翔)は入社4年目の報道カメラマン。現場を一人で任されるようになり、自分が撮る写真に自信を持ち始めていた。学生時代は大手マスコミの試験に全滅し、一般企業に勤めていたが、報道の仕事があきらめきれず、2年後、唯一合格したのが神戸新聞だった。
神戸新聞社・写真部。入社1年目の小藤香織(吹石一恵)が写真部デスクの則本に怒られている。小藤は泣きそうな声で、三津山に「どうしたら三津山さんみたいないい写真撮れるんですか」と聞く。
ワンルームマンションの中。眠っていた三津山をこれまで経験したことのない揺れが襲う。散乱した物の中から手探りで、洋服とカメラをつかみ、外に出て行く。三津山は取材をしながら、神戸新聞社に向かう。
会社に到着した三津山はメチャメチャになった編集局フロアにぼうぜん自失となる。壁から落ちた時計は5時46分で止まっている。写真部の部屋も自動現像機が横倒しになり、現像液が床一面をビショビショにぬらしている。
編集局長の山根(内藤剛志)は、ホストコンピューターが壊れ、新聞が発行できない状況にぼうぜんとなり、言葉を失う。だが、山根は「新聞は必ず出すんや!」と部下を鼓舞し、京都新聞社に電話をする。神戸新聞と京都新聞は新聞制作に、コンピューターを導入し始めていた当初、突発的なシステムダウンを想定し、緊急時に互いを助け合う援助協定を結んでいた。
京都新聞が紙面の制作を了承し、震災当日の夕刊を出すことになった。京都で神戸新聞の紙面を作るため、三津山は整理部長の首藤(嶋政宏)らと京都へ向かう。京都新聞社の全面協力を受け、なんとか1月17日の神戸新聞夕刊が発行された。たった4ページ。「無念の夕刊」だったが、休刊をしたことがないという誇りを神戸新聞は守り抜いた。
だが、神戸新聞に新たな試練が襲う。外からは原型をとどめている神戸新聞本社は「全壊判定」を受け、いつ崩れ落ちても不思議でない状態だった。全員撤去し、空きビルの一室を借りて、臨時編集局を開設することになった。
次々と試練が襲い、新聞を出す意味に迷いを見せ始める神戸新聞社員。父親を震災で失った一人の論説委員長の社説が彼らの気持ちを奮い立たせる…。
2010年1月、40代になった三津山が大震災当時を振り返る形式で、資料映像をまじえたドキュメンタリードラマをお届けする。
******
ドキュメンタリー形式の再現ドラマでした。
ほぼ実話というかノンフィクションですよね。
地震などを想定して災害時の協定を京都新聞と結んでいたのが幸いしましたが
いつもどおりに京都に着けると考えていたらそれは甘かった・・。
あの地震の揺れ方が縦揺れだったということですが
夏ごろに縦揺れ地震を経験しましたが、本当に気持ちの悪いものでした。
横揺れだって気分のいいものではありませんが
いつまでもざわざわと得体のしれない不安な気持ちになったものでしたから。
それがM7.2の直下型地震なんて・・一瞬で全てが崩壊してしまうほどの凄まじさ。
天災というものがどれほどかと思い知らされるものでした。
ところがテレビも電話も通じない被災地では自分たちがなぜこういう状況なのかわからない。
三津山たちも迂回して京都へ向かう車のラジオで地震の震度を聞き、初めて被害を知ったというところでした。
情報網が遮断されたということですが
神戸新聞ではホストコンピューターが壊れてしまったのですが
既にこのころはノートPCや携帯電話も普及し始めていたころではなかった?
ラインが全滅しているから使えなかったのか?
ドラマの中ではワープロは使っていたけれどノートPCは使ってなかったもんね。
新聞社だから自動車電話ぐらいは使っても良さそうなのにそれも使ってなかったです。
とにかく京都へ向かった4人は夕刊締め切りには間に合いませんでした。
それでも神戸側と京都新聞の編集長が電話でやり取りして、夕刊を出すことが出来たという
休刊をしたことがない歴史を更新し誇りを守ることができました。
この非常時こそ新聞は大切な役割を担っているという自負が成したことでした。
しかしすぐに朝刊がやってきます。
京都班では京都新聞社の一部を借り、コンピューターも僅かにあいている30分だけ貸してもらうという状況。
一方、神戸新聞社屋は全壊の判定を受け、避難場所に編集部を立てることになったのでした。
それでも記者たちは自分の目でとらえた記事を書くために街へと繰り出します。
ところが、被災者達の悲惨さ、過酷さを見るにつけ
とてもカメラを向けられないという葛藤が襲ってきます。
女性記者などは夢でうなされ涙まで流すくらいですが
実際、カメラマン達にはシャッターを切るほどに苦しい思いがこみ上げてきていました。
三津山は編集長に苦しむ被災者達の姿を映すことに何か意味があるのかと聞いてしまうのでした。
しかし、これに応えるように、それでも5年10年と記録を残していかねばならないと
先輩記者が語るのでした。
逃げずに写真を撮れと編集長にも言われています。
またカメラマンになって、間もない三津山には試練の日々だったに違いないのです。
それにしても、ようやく助け出された娘さんの命が消えていたり、
焼け跡から母親の骨を拾う少年など胸が抉られるシーンの続出で
涙、涙で乾くときがありませんでした。
そしてその時写した数々の写真もリアルで映像に載りました。
本当に絶句です。
そして記者たち自身も紛れもない被災者なのです。
父親を失った論説委員長の書いた社説。
「被災者になってわかったこと」・・号泣でした。
これまで被災者を報道していたが自分がなってみて初めて経験することに絶句し
自分たちはこれまで被災者を理解し同情しつつ報道してきたつもりではあっても
程遠かったということでした。
いつでも被災者をフォローし、救済する準備と覚悟はあったのか。
こうして、悲惨な状況を報道してきた記者たちもこの日から明日への希望へと
紙面を一新させていきます。
生きることへの援助をしなければならないと
被災者によりそった情報と明るい写真を提供する方向に転じています。
社屋が壊れ、コンピューターも奪われそれでも新聞を出し続けた神戸新聞の方々。
また、その新聞をムダにしてはならないと路上の車の人たちに配った配達の方々。
自分にできることで人々に貢献することを実践したすばらしさが溢れています。
京都新聞を去る日、編集長は神戸新聞の面々に
がんばれがんばれ神戸と激励してくれました。
京都新聞の協力のおかげで休刊せずに続けてこられたのです。
感謝感激です。
日々を新たに、日々に新たに。
震災を忘れずに、その日に対する備えをしっかりせねばならないと
決意を促してくれました。
あと一つ、携帯の災害用伝言板の使い方も覚えておかないといけないですね。
探してみよう。
神戸新聞社・写真部。入社1年目の小藤香織(吹石一恵)が写真部デスクの則本に怒られている。小藤は泣きそうな声で、三津山に「どうしたら三津山さんみたいないい写真撮れるんですか」と聞く。
ワンルームマンションの中。眠っていた三津山をこれまで経験したことのない揺れが襲う。散乱した物の中から手探りで、洋服とカメラをつかみ、外に出て行く。三津山は取材をしながら、神戸新聞社に向かう。
会社に到着した三津山はメチャメチャになった編集局フロアにぼうぜん自失となる。壁から落ちた時計は5時46分で止まっている。写真部の部屋も自動現像機が横倒しになり、現像液が床一面をビショビショにぬらしている。
編集局長の山根(内藤剛志)は、ホストコンピューターが壊れ、新聞が発行できない状況にぼうぜんとなり、言葉を失う。だが、山根は「新聞は必ず出すんや!」と部下を鼓舞し、京都新聞社に電話をする。神戸新聞と京都新聞は新聞制作に、コンピューターを導入し始めていた当初、突発的なシステムダウンを想定し、緊急時に互いを助け合う援助協定を結んでいた。
京都新聞が紙面の制作を了承し、震災当日の夕刊を出すことになった。京都で神戸新聞の紙面を作るため、三津山は整理部長の首藤(嶋政宏)らと京都へ向かう。京都新聞社の全面協力を受け、なんとか1月17日の神戸新聞夕刊が発行された。たった4ページ。「無念の夕刊」だったが、休刊をしたことがないという誇りを神戸新聞は守り抜いた。
だが、神戸新聞に新たな試練が襲う。外からは原型をとどめている神戸新聞本社は「全壊判定」を受け、いつ崩れ落ちても不思議でない状態だった。全員撤去し、空きビルの一室を借りて、臨時編集局を開設することになった。
次々と試練が襲い、新聞を出す意味に迷いを見せ始める神戸新聞社員。父親を震災で失った一人の論説委員長の社説が彼らの気持ちを奮い立たせる…。
2010年1月、40代になった三津山が大震災当時を振り返る形式で、資料映像をまじえたドキュメンタリードラマをお届けする。
******
ドキュメンタリー形式の再現ドラマでした。
ほぼ実話というかノンフィクションですよね。
地震などを想定して災害時の協定を京都新聞と結んでいたのが幸いしましたが
いつもどおりに京都に着けると考えていたらそれは甘かった・・。
あの地震の揺れ方が縦揺れだったということですが
夏ごろに縦揺れ地震を経験しましたが、本当に気持ちの悪いものでした。
横揺れだって気分のいいものではありませんが
いつまでもざわざわと得体のしれない不安な気持ちになったものでしたから。
それがM7.2の直下型地震なんて・・一瞬で全てが崩壊してしまうほどの凄まじさ。
天災というものがどれほどかと思い知らされるものでした。
ところがテレビも電話も通じない被災地では自分たちがなぜこういう状況なのかわからない。
三津山たちも迂回して京都へ向かう車のラジオで地震の震度を聞き、初めて被害を知ったというところでした。
情報網が遮断されたということですが
神戸新聞ではホストコンピューターが壊れてしまったのですが
既にこのころはノートPCや携帯電話も普及し始めていたころではなかった?
ラインが全滅しているから使えなかったのか?
ドラマの中ではワープロは使っていたけれどノートPCは使ってなかったもんね。
新聞社だから自動車電話ぐらいは使っても良さそうなのにそれも使ってなかったです。
とにかく京都へ向かった4人は夕刊締め切りには間に合いませんでした。
それでも神戸側と京都新聞の編集長が電話でやり取りして、夕刊を出すことが出来たという
休刊をしたことがない歴史を更新し誇りを守ることができました。
この非常時こそ新聞は大切な役割を担っているという自負が成したことでした。
しかしすぐに朝刊がやってきます。
京都班では京都新聞社の一部を借り、コンピューターも僅かにあいている30分だけ貸してもらうという状況。
一方、神戸新聞社屋は全壊の判定を受け、避難場所に編集部を立てることになったのでした。
それでも記者たちは自分の目でとらえた記事を書くために街へと繰り出します。
ところが、被災者達の悲惨さ、過酷さを見るにつけ
とてもカメラを向けられないという葛藤が襲ってきます。
女性記者などは夢でうなされ涙まで流すくらいですが
実際、カメラマン達にはシャッターを切るほどに苦しい思いがこみ上げてきていました。
三津山は編集長に苦しむ被災者達の姿を映すことに何か意味があるのかと聞いてしまうのでした。
しかし、これに応えるように、それでも5年10年と記録を残していかねばならないと
先輩記者が語るのでした。
逃げずに写真を撮れと編集長にも言われています。
またカメラマンになって、間もない三津山には試練の日々だったに違いないのです。
それにしても、ようやく助け出された娘さんの命が消えていたり、
焼け跡から母親の骨を拾う少年など胸が抉られるシーンの続出で
涙、涙で乾くときがありませんでした。
そしてその時写した数々の写真もリアルで映像に載りました。
本当に絶句です。
そして記者たち自身も紛れもない被災者なのです。
父親を失った論説委員長の書いた社説。
「被災者になってわかったこと」・・号泣でした。
これまで被災者を報道していたが自分がなってみて初めて経験することに絶句し
自分たちはこれまで被災者を理解し同情しつつ報道してきたつもりではあっても
程遠かったということでした。
いつでも被災者をフォローし、救済する準備と覚悟はあったのか。
こうして、悲惨な状況を報道してきた記者たちもこの日から明日への希望へと
紙面を一新させていきます。
生きることへの援助をしなければならないと
被災者によりそった情報と明るい写真を提供する方向に転じています。
社屋が壊れ、コンピューターも奪われそれでも新聞を出し続けた神戸新聞の方々。
また、その新聞をムダにしてはならないと路上の車の人たちに配った配達の方々。
自分にできることで人々に貢献することを実践したすばらしさが溢れています。
京都新聞を去る日、編集長は神戸新聞の面々に
がんばれがんばれ神戸と激励してくれました。
京都新聞の協力のおかげで休刊せずに続けてこられたのです。
感謝感激です。
日々を新たに、日々に新たに。
震災を忘れずに、その日に対する備えをしっかりせねばならないと
決意を促してくれました。
あと一つ、携帯の災害用伝言板の使い方も覚えておかないといけないですね。
探してみよう。
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